第三十七部 二人で歩く速度と、本人より先に関所へ着いた名前の話 ① 宿駅の朝と、女将のこぶ
宿駅の朝は、馬小屋の扉を開ける音から始まった。
まだ空が完全には明るくならないうちから、御者たちは荷台へ積んだ縄や布を確かめ、馬の脚へ泥が固まっていないかを見て回っている。厨房の炉にも火が入り、豆と根菜を煮込んだ昨夜の鍋へ水が足されると、薄い湯気と一緒に香草の匂いが食堂へ広がった。
西へ向かう旅人が多いため、宿屋の廊下は早い時間から騒がしい。
灰鐘関所で書類の照合が増え、通行に時間が掛かっているらしい。昨日のうちに門を越えられなかった荷車もある。少しでも早く列へ並びたい商人と、馬を急がせて壊したくない御者が、食堂の端で静かに言い争っていた。
俺は床へ敷いた毛布の上で目を覚まし、しばらく天井を見ていた。
体は、思ったより軽い。
船旅のあとから残っていた右膝の違和感も、町医者から延長を言い渡される原因になった腰の重さも、眠れば完全に消えるわけではない。それでも、一人旅を始めた直後よりはかなりましだった。
問題は、隣の寝台で眠っているはずの女である。
起き上がると、寝台は空だった。
毛布は畳まれ、枕も元の位置へ戻されている。五束の紙を預けた革袋は、俺の枕元に置いたまま動かされていない。
窓の近くには、カミラがいた。
昨夜洗った包帯を確かめ、乾いた布と薬草を小さく分け、出発後すぐに使う物だけを手の届く袋へ移している。左肩を痛めているため動きは少し不自由だが、右手だけで必要な作業を順番に進めていた。
「いつから起きている」
俺が訊くと、カミラは振り返らなかった。
「少し前だ」
「少しとは」
「空が明るくなる前」
「それは、少し前ではない」
「眠れた」
「何時間」
「必要な分だけ」
便利な言葉だった。
非常に。
ただし、昨日のように三日眠らず歩き続けた女へ、そのまま使わせてよい言葉ではない。
「顔を見せろ」
「何だ」
「寝不足の程度を確認する」
「医者の真似は、もういい」
「同行者の管理だ」
俺が近づくと、カミラはようやく顔を上げた。
目の下には、まだ疲労が残っている。それでも昨日よりは血色が戻り、唇の乾きも少しだけ和らいでいた。宿の温かい食事と数時間の睡眠は、思っていた以上に効いたらしい。
「昨日よりはましだな」
「最初から問題ない」
「昨日、立ち上がれなかった女が言うと説得力がある」
「一度だけだ」
「一度で十分だ」
カミラは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言い返さなかった。
負けを認めたわけではない。
ただ、議論へ時間を使うより、荷物をまとめた方がよいと判断したのだろう。
監察官は、負け方まで合理的である。
◇
俺も出発の準備を始めた。
革袋の中には、カミラから預かった五束の紙が入っている。
ガリレオ周辺で消えた薬箱の受領記録。
移送されたことになっている坑夫の名簿。
改訂前と改訂後の台帳。
市民や荷運び人の証言。
監察局内部で、誰が書類へ触れたかを追うための控え。
紙そのものは軽い。
だが、革袋を持ち上げるたびに、昨日までより重くなったように感じた。
カミラが十日近く守ってきたものだからかもしれない。
燃やされれば、紙だけではなく、名前まで消える。
そう聞いたからかもしれない。
あるいは、一人分の荷物ではなくなったからかもしれない。
革袋を肩へ掛け、壁へ吊るした外套を取ろうとした時だった。
同じ木釘へ掛けられていた細い布が、俺の顔へ落ちてきた。
柔らかい。
軽い。
昨夜洗い、窓際で乾かしていたらしい。
顔から外し、手の中へ広げる。
女性用の下着だった。
かなり小さい。
白い布。
細い紐。
飾りは少ない。
実用的。
それでも、体へ沿う部分だけは柔らかい布が使われている。
俺は、極めて真面目に状態を確認した。
乾いている。
ほぼ完全に。
旅の荷物へ戻しても問題ない。
衛生上の確認である。
非常に重要な。
「何をしている」
低い声がした。
ゆっくり振り返る。
カミラが、窓の近くに立っていた。
表情は変わらない。
ただし。
右手には、昨夜使った木筒がある。
「乾燥状態の確認だ」
「なぜ、広げた」
「湿っていないかを見る必要がある」
「なぜ、顔へ近づけた」
「落ちてきた」
「そのあとだ」
難しい質問だった。
俺は、慎重に答えを探した。
「今後の荷造りへ必要な記憶の定着」
木筒が額へ当たった。
「痛い」
「返せ」
「暴力では」
「返せ」
非常に。
良い朝だった。
◇
食堂へ降りると、宿の女将は俺の額を見て、昨夜よりこぶが増えたことへすぐに気づいた。
「またやったのかい」
「事故だ」
「昨日も聞いたよ」
「旅には、予想外がある」
「予想外へ自分から顔を突っ込んでいる男が言う言葉じゃないね」
正確だった。
女将は、黒パン、卵、豆の煮込み、薄い茶を卓へ置いた。
カミラの前には、俺の分より少し多めにパンが置かれている。
「食べな」
女将が言った。
「昨日の夜も、最初は煮込みだけでいいと言っていたね。歩く人間は、食べないと歩けないよ」
「十分に食べました」
「十分かどうかは、食べ終わってから決めるものさ」
軍医でも監察官でもない。
宿屋の女将。
それでも、カミラを座らせる力がある。
カミラは、少しだけ困った顔をしたあと、何も言わず黒パンを手へ取った。
強い。
有能。
役所へ戻れなくなっても、紙を守る。
追っ手へ鉄棒を振るう。
だが、宿屋の女将には押し切られる。
非常に。
良い。
「何だ」
カミラが訊いた。
「食欲が戻ってよかったと思っている」
「顔が違う」
「監察官は、人の顔を疑いすぎる」
「実績で判断している」
俺は卵を割りながら、何も言わなかった。
今は、言わない方がいい。
少しだけ。
成長した。
──第三十七部 了




