表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

200/270

第三十七部 二人で歩く速度と、本人より先に関所へ着いた名前の話 ① 宿駅の朝と、女将のこぶ

 宿駅の朝は、馬小屋の扉を開ける音から始まった。

 まだ空が完全には明るくならないうちから、御者たちは荷台へ積んだ縄や布を確かめ、馬の脚へ泥が固まっていないかを見て回っている。厨房の炉にも火が入り、豆と根菜を煮込んだ昨夜の鍋へ水が足されると、薄い湯気と一緒に香草の匂いが食堂へ広がった。

 西へ向かう旅人が多いため、宿屋の廊下は早い時間から騒がしい。

 灰鐘関所で書類の照合が増え、通行に時間が掛かっているらしい。昨日のうちに門を越えられなかった荷車もある。少しでも早く列へ並びたい商人と、馬を急がせて壊したくない御者が、食堂の端で静かに言い争っていた。

 俺は床へ敷いた毛布の上で目を覚まし、しばらく天井を見ていた。

 体は、思ったより軽い。

 船旅のあとから残っていた右膝の違和感も、町医者から延長を言い渡される原因になった腰の重さも、眠れば完全に消えるわけではない。それでも、一人旅を始めた直後よりはかなりましだった。

 問題は、隣の寝台で眠っているはずの女である。

 起き上がると、寝台は空だった。

 毛布は畳まれ、枕も元の位置へ戻されている。五束の紙を預けた革袋は、俺の枕元に置いたまま動かされていない。

 窓の近くには、カミラがいた。

 昨夜洗った包帯を確かめ、乾いた布と薬草を小さく分け、出発後すぐに使う物だけを手の届く袋へ移している。左肩を痛めているため動きは少し不自由だが、右手だけで必要な作業を順番に進めていた。

「いつから起きている」

 俺が訊くと、カミラは振り返らなかった。

「少し前だ」

「少しとは」

「空が明るくなる前」

「それは、少し前ではない」

「眠れた」

「何時間」

「必要な分だけ」

 便利な言葉だった。

 非常に。

 ただし、昨日のように三日眠らず歩き続けた女へ、そのまま使わせてよい言葉ではない。

「顔を見せろ」

「何だ」

「寝不足の程度を確認する」

「医者の真似は、もういい」

「同行者の管理だ」

 俺が近づくと、カミラはようやく顔を上げた。

 目の下には、まだ疲労が残っている。それでも昨日よりは血色が戻り、唇の乾きも少しだけ和らいでいた。宿の温かい食事と数時間の睡眠は、思っていた以上に効いたらしい。

「昨日よりはましだな」

「最初から問題ない」

「昨日、立ち上がれなかった女が言うと説得力がある」

「一度だけだ」

「一度で十分だ」

 カミラは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言い返さなかった。

 負けを認めたわけではない。

 ただ、議論へ時間を使うより、荷物をまとめた方がよいと判断したのだろう。

 監察官は、負け方まで合理的である。



 ◇



 俺も出発の準備を始めた。

 革袋の中には、カミラから預かった五束の紙が入っている。

 ガリレオ周辺で消えた薬箱の受領記録。

 移送されたことになっている坑夫の名簿。

 改訂前と改訂後の台帳。

 市民や荷運び人の証言。

 監察局内部で、誰が書類へ触れたかを追うための控え。

 紙そのものは軽い。

 だが、革袋を持ち上げるたびに、昨日までより重くなったように感じた。

 カミラが十日近く守ってきたものだからかもしれない。

 燃やされれば、紙だけではなく、名前まで消える。

 そう聞いたからかもしれない。

 あるいは、一人分の荷物ではなくなったからかもしれない。

 革袋を肩へ掛け、壁へ吊るした外套を取ろうとした時だった。

 同じ木釘へ掛けられていた細い布が、俺の顔へ落ちてきた。

 柔らかい。

 軽い。

 昨夜洗い、窓際で乾かしていたらしい。

 顔から外し、手の中へ広げる。

 女性用の下着だった。

 かなり小さい。

 白い布。

 細い紐。

 飾りは少ない。

 実用的。

 それでも、体へ沿う部分だけは柔らかい布が使われている。

 俺は、極めて真面目に状態を確認した。

 乾いている。

 ほぼ完全に。

 旅の荷物へ戻しても問題ない。

 衛生上の確認である。

 非常に重要な。

「何をしている」

 低い声がした。

 ゆっくり振り返る。

 カミラが、窓の近くに立っていた。

 表情は変わらない。

 ただし。

 右手には、昨夜使った木筒がある。

「乾燥状態の確認だ」

「なぜ、広げた」

「湿っていないかを見る必要がある」

「なぜ、顔へ近づけた」

「落ちてきた」

「そのあとだ」

 難しい質問だった。

 俺は、慎重に答えを探した。

「今後の荷造りへ必要な記憶の定着」

 木筒が額へ当たった。

「痛い」

「返せ」

「暴力では」

「返せ」

 非常に。

 良い朝だった。



 ◇



 食堂へ降りると、宿の女将は俺の額を見て、昨夜よりこぶが増えたことへすぐに気づいた。

「またやったのかい」

「事故だ」

「昨日も聞いたよ」

「旅には、予想外がある」

「予想外へ自分から顔を突っ込んでいる男が言う言葉じゃないね」

 正確だった。

 女将は、黒パン、卵、豆の煮込み、薄い茶を卓へ置いた。

 カミラの前には、俺の分より少し多めにパンが置かれている。

「食べな」

 女将が言った。

「昨日の夜も、最初は煮込みだけでいいと言っていたね。歩く人間は、食べないと歩けないよ」

「十分に食べました」

「十分かどうかは、食べ終わってから決めるものさ」

 軍医でも監察官でもない。

 宿屋の女将。

 それでも、カミラを座らせる力がある。

 カミラは、少しだけ困った顔をしたあと、何も言わず黒パンを手へ取った。

 強い。

 有能。

 役所へ戻れなくなっても、紙を守る。

 追っ手へ鉄棒を振るう。

 だが、宿屋の女将には押し切られる。

 非常に。

 良い。

「何だ」

 カミラが訊いた。

「食欲が戻ってよかったと思っている」

「顔が違う」

「監察官は、人の顔を疑いすぎる」

「実績で判断している」

 俺は卵を割りながら、何も言わなかった。

 今は、言わない方がいい。

 少しだけ。

 成長した。



 ──第三十七部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ