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第三十六部 二人分の適量と、燃やされないために増やす紙の話 ④ 宿帳と、追いつけない数

 食事を終え、宿帳へ名前を書いた。

 ロド・カナリ。

 帝国内の病院へ入った時。

 シーロへ向かう船へ乗った時。

 必要だったから使った名前。

 長い間、自分の本名を誰にも呼ばせなかったわけではない。

 ただ、今は帝国内を歩くために、この名前を着ておいた方が都合がいい。

 その横へ、カミラが書く。

 ミラ・パウル。

 記録係。

 西へ向かう旅人。

 どこにでもいる名前へ見せるための、便宜上の名前。

 カミラの字は、整いすぎていた。

 まっすぐ。

 硬い。

 迷いがない。

 役所で長く紙へ向き合ってきた人間の字である。

「字を少し崩した方がいい」

 俺が言うと、カミラは筆を止めた。

「なぜ」

「ミラ・パウルという旅の記録係にしては、監察官の字だ」

「傭兵に字を直されるとは思わなかった」

「元王子だからな」

 口から出たあとで、少しだけ間が空いた。

 カミラは宿帳へ視線を落としたまま動かない。

 俺も、自分の書いたロド・カナリという名前を見る。

 便宜上の名前。

 紙へ置いた名前。

 着ることも。

 脱ぐことも。

 できる名前。

「今、何と言った」

 カミラが、ゆっくり訊いた。

「元王子」

「聞き間違いではないな」

「たぶん」

「どこの」

 食堂には、まだ人がいる。

 話す場所ではない。

「道で話す」

 俺は答えた。

 カミラは、すぐには追及しなかった。

 俺の顔を一度だけ見て、それから小さく頷く。

「分かった」

 監察官は、紙を読む順番だけでなく、人間へ訊く順番も知っているらしい。



 ◇



 夜。

 寝台は、カミラへ譲った。

 傷つき、三日近く眠らず、五束の紙を守って歩いてきた女から寝台を奪うほど、俺も人間を辞めてはいない。

 俺は床へ毛布を敷き、外套を丸めて枕にした。

 固い。

 非常に。

 固い。

 港町の寝台と比べる必要はない。

 だが、人間は良かった物を思い出す。

 柔らかい寝台。

 湯場。

 女将。

 大人の事情。

 腰。

「顔が最低だ」

 寝台から、カミラの声が飛んだ。

「何も言っていない」

「考えている」

「監察官は、人の頭まで読むのか」

「今は、読まなくても分かる」

 失礼だった。

 かなり。

「寝ろ」

 俺が言うと、カミラは天井を見たまま答えた。

「寝る」

「五束は、俺が持っている」

「ああ」

「燃やさない」

「ああ」

「逃げない」

「ああ」

 短い返事。

 だが、張り詰めていたものが少しずつ緩んでいくのが分かる。

「灰鐘関所で写したあと」

 俺は訊いた。

「お前はどうする」

「分からない」

「珍しいな」

「関所の中が安全とは限らない。帝国軍が誰の命令で動いているかも分からない。写しを分けたあとで考える」

「俺は西へ行く」

「旧リュカリオンへ?」

 少しだけ。

 胸の奥が動く。

「その方面へ」

「理由は」

「確かめたい」

「何を」

「昔の国が、今どうなっているか」

 答えたあと、寝台の軋む音がした。

 カミラがこちらへ顔を向けたのだろう。

「怖いか」

「ああ」

 少しだけ間を置き、正直に答える。

「たぶん」

「そうか」

 それ以上、カミラは訊かなかった。

 無理に開かない。

 順番を待つ。

 紙にも、人にも、開く順番がある。

 黒松林で俺が考えたとおりだった。

「寝ろ」

 俺は言った。

「見張りは」

「俺がする」

「肩は」

「少し休んだ」

「無理をするな」

「お前に言われると、少し腹が立つ」

「私も同じだ」

 カミラの声に、ほんの少しだけ笑いが混ざった。

 それから。

 しばらくすると、寝台から聞こえる呼吸がゆっくり深くなった。

 ようやく眠った。

 俺は床の上で目を閉じる。

 だが、すぐには眠れない。

 肩は固い。

 膝も少し痛い。

 床は冷たい。

 そして。

 隣の寝台には。

 非常に。

 魅力的な女が眠っている。

 リューリックはいない。

 ニーナもいない。

 止める人間はいない。

 自由である。

 ただし、カミラは疲れ切っている。

 今日。

 何度も。

 その結論へ戻る。

 俺にも最低限の理性はある。

 本当に。

 最低限だが。

 毛布を引き上げる。

 目を閉じる。

 少しだけ。

 レイラのことを思い出した。

 雪。

 小さな手袋。

 眠そうな顔。

 今、どこにいるのか。

 誰といるのか。

 食べているのか。

 眠れているのか。

 分からない。

 俺が西へ歩く理由は、一つではない。

 昔の国がどうなったか。

 自分の名前が、まだどこかへ残っているのか。

 レイラの痕跡へ近づけるのか。

 全部。

 まだ、はっきりとは見えない。

 それでも。

 歩く。

 一人ではなくなった道を。

 明日は、灰鐘関所へ向かう。

 紙を燃やされないように。

 一枚ではなく。

 燃やす側が追いつけない数まで。



 ──第三十六部 了


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