第三十六部 二人分の適量と、燃やされないために増やす紙の話 ③ 仕切り布と、食堂の対話
部屋へ戻ると、カミラは仕切り布の向こうへ入っていた。
「置くぞ」
「ああ」
「手伝いは」
「必要ない」
「本当に?」
「必要になったら呼ぶ」
俺は机へ洗面器を置き、椅子へ腰を下ろした。
窓の外。
馬小屋。
夕暮れ。
空。
非常に。
穏やか。
仕切り布の向こうからは、外套を外す音、紐をほどく音、布を湯へ浸す音が聞こえる。
俺は、極めて真面目に窓の外を見た。
本当に。
主に。
その時。
机の上へ置いた洗面器の水面が、少し揺れた。
夕方の光。
仕切り布。
その向こう。
ぼんやりとした影。
黒い髪。
肩。
背中。
布を巻き直そうとして、少し体を捻るカミラの姿が、水面へ淡く映っている。
偶然である。
完全に。
事故である。
俺は何もしていない。
洗面器を置いたのも、湯を頼んだのも、負傷者のためである。
ただし。
ここで急に洗面器を動かせば、音がする。
カミラが驚く。
左肩へ負担が掛かる。
だから。
動かさない。
極めて慎重に。
現状を維持する。
安全のために。
非常に。
重要。
「ロド」
仕切り布の向こうから、低い声がした。
「何だ」
「机の上の洗面器を動かせ」
「なぜ」
「反射している」
ばれている。
かなり早い。
「これは事故だ」
「三秒前まではな」
「時間を測っていた?」
「監察官だからな」
仕切り布の向こうから、濡れた布が飛んできた。
顔へ当たる。
薬草と湯の匂い。
「痛くはない」
「残念だ」
「少し優しくなった?」
「次は木桶にする」
世界は怖い。
本当に。
◇
しばらくすると、仕切り布の向こうから声がした。
「紐だけ頼む」
「どの」
「外套だ。右手だけでは締めにくい」
「了解した」
「余計なところを見るな」
「信用がないな」
「実績がある」
仕切り布の端が少しだけ開く。
カミラは外套を肩へ掛け、胸元を自分で押さえていた。包帯は巻き直してある。ただし、背中から回した紐だけが緩く、左肩を動かさずに結ぶのは難しいらしい。
俺は、紐へ手を伸ばした。
首元。
黒い髪。
白い肌。
薬草の匂い。
暖かい湯の気配。
近い。
かなり。
近い。
「手が止まった」
「結び方を考えている」
「視線も止まっている」
「安全確認だ」
「何の」
難しい質問だった。
答えを探している間に、カミラの右肘が脇腹へ入った。
「痛い」
「結べ」
「負傷者への暴力は」
「あんたは、さっきまで負傷者を覗いていた」
「反射を確認しただけだ」
「最低だな」
否定は少し難しい。
今度こそ、紐だけを見て結んだ。
主に。
◇
食堂へ降りると、豆と根菜を煮込んだ椀、黒パン、干し肉が卓へ並べられた。
カミラは最初、煮込みだけでいいと言った。
俺は女将へ黒パンを二つ、干し肉も多めに頼んだ。
「食べきれない」
カミラが言う。
「俺が食べる」
「なら、私の前へ置くな」
「護衛対象が食べる可能性を残している」
「対象と呼ぶな」
「では、同行者」
カミラは少しだけ眉を寄せたが、椀へ匙を入れた。
最初はゆっくり。
だが、温かい煮込みが体へ入るにつれ、食べる速度が少しずつ戻る。黒パンも一つ、干し肉も半分以上食べた。
俺は何も言わなかった。
言えば、意地を張る。
それくらいは、もう分かる。
「五束の中身を、改めて聞いていいか」
食事が落ち着いた頃、俺は声を落とした。
周囲には商人や荷運び人がいる。
細部まで話す場所ではない。
それでも、何を守っているかくらいは知っておく必要がある。
カミラは卓の上ではなく、自分の膝へ置いた袋へ片手を添えた。
「一束目は、ガリレオ周辺の薬の受領記録。届いたことになっている薬箱と、実際に診療所へ入った数が合わない」
「二束目は」
「患者移送札。治療のために移されたことになっている坑夫の一部が、移送先へ着いていない」
「消えた?」
「紙の上では、移送済みだ。だが、受け入れた側の名簿にいない」
椀から上がる湯気の向こうで、カミラの目が少しだけ硬くなる。
「三束目は、改訂前と改訂後の台帳。名前が削られた箇所、数字が変えられた箇所、印が押し直された箇所を並べてある。四束目は証言。坑夫、市場の女、荷運び人、診療所へ出入りした商人。最後の一束は、監察局内部で誰が書類へ触れたかを追うための控えだ」
「最後が一番危ない?」
「全部危ない。ただ、最後の一束は、役所の中にいる人間へ届く」
だから、追われた。
誰かが薬を抜いた。
誰かが患者を消した。
誰かが紙を書き換えた。
さらに。
誰かが、それを役所の中で守ろうとしたカミラまで消そうとした。
「灰鐘関所で、一度ばらす?」
「ああ。五束を一緒に持ち歩くのは、今夜までにする。写しを作り、別の荷車、別の伝令、別の商人へ分ける。可能なら、帝国側の保管にも一部を入れる」
「信用だけへ頼らない」
「そうだ」
カミラは水を飲み、少しだけ息を吐いた。
「人間は裏切る。制度も腐る。だが、一人が裏切っても全部が消えない形にはできる」
「お前は、それでも国家を諦めないんだな」
「ああ」
答えは、すぐに返ってきた。
「役所が腐ったからといって、国に暮らす人間まで捨てる理由にはならない」
黒松林の小屋でも聞いた言葉だった。
だが、宿駅の食堂で、旅人の声、椀の音、炉の火、煮込みの匂いに囲まれて聞くと、少し違って響く。
国家とは、旗や議場だけではない。
今、同じ食堂で飯を食べている人間。
薬を待つ子ども。
馬へ水を飲ませる御者。
帳面を付ける宿屋の女将。
そういう生活の集まりなのだ。
カミラは、それを守るために、帰れなくなった。
「何だ」
カミラが訊いた。
「少し、格好いいと思った」
「またか」
「事実だ」
「気味が悪いな」
「褒めている」
「普段の言動が悪い」
「正確だ」
カミラは椀へ視線を落とした。
ほんの少しだけ。
耳が赤い。
火の近くだからかもしれない。
たぶん。
そういうことにしておく。
──第三十六部 了




