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第三十六部 二人分の適量と、燃やされないために増やす紙の話 ② 夕暮れの宿駅《北鹿亭》

 休憩を終えたあと、二人で歩く速度は少しだけ落ちた。

 カミラは何も言わなかったが、右足へ偏っていた重心を意識して戻している。歩幅もわずかに狭くなった。

 俺も、急かさなかった。

 一人で歩く時は、自分の体の声だけを聞けばいい。

 膝が痛ければ止まる。

 喉が渇けば飲む。

 腹が減れば食べる。

 疲れたら宿を探す。

 だが、二人で歩く時には、自分だけの適量では足りない。

 相手が何も言わない時ほど、顔色、呼吸、歩幅、荷物の持ち方を見なければならない。

 リューリックは、それを当たり前のようにやっていた。

 俺が強がれば、食事の量を増やした。

 歩けると言えば、宿を取った。

 剣を握れると言えば、翌朝まで没収した。

 あの男が隣にいる時、俺はずいぶん多くのことを、自分で考えずに済ませていたのだと思う。

 いなくなってから、ようやく分かる。

 少しだけ。

 本当に、少しだけ。

 静かすぎる。

「何を考えている」

 隣を歩くカミラが訊いた。

「サンドルのことを」

「誰だ」

「家令だ。便宜上の名前を使っている」

「今、どこにいる」

「南へ向かった。王国、ブリエン、レヴォナ方面だと思う」

「離れているのか」

「ああ」

「珍しいな」

「俺たちが別々に動くのは、かなり珍しい」

 カミラは、少しだけ黙った。

「心配か」

「少し」

「正直だな」

「最近、嘘をつくと怒られる」

「各方面から?」

「かなり」

 今度こそ、カミラはほんの少しだけ笑った。

 短い。

 だが。

 確かに笑った。

「今、笑ったな」

「気のせいだ」

「記録する」

「燃やすぞ」

「紙は燃やすな」

「お前の頭の中の記録だ」

「それは、かなり難しい」

 カミラは、少しだけ目を細めた。

「本当に面倒な男だな」

「よく言われる」

 そう答えたあとで、二人の歩幅が、さっきより少しだけ揃っていることへ気づいた。



 ◇



 宿駅が見えたのは、夕暮れの色が街道へ落ち始めた頃だった。

 大きな町ではない。

 石壁もない。

 街道の両側へ宿屋、食堂、馬小屋、荷車の修理場、簡単な薬問屋が並び、その奥には旅人用の井戸と、小さな巡察詰所がある。

 西へ向かう商人。

 東へ戻る御者。

 荷を積み替える人足。

 馬の蹄を確かめる鍛冶屋。

 炉から流れる煙と煮込み料理の匂いが、冷え始めた空気へ混ざっている。

 黒松林の中で過ごしたあとだからか、灯りのある場所へ戻ってきたというだけで、体の力が少し抜けた。

 それでも、気を緩めることはできない。

 カミラは頭巾を深く被り直した。

 左肩が上がらないため、紐はまた少し緩い。

 俺は、極めて真面目に申し出た。

「直す?」

「自分でやる」

「朝までに解ける」

「宿へ入ってからでいい」

「変装が崩れる」

「余計なところを見るな」

「まだ何もしていない」

「顔がしている」

 何をしている顔なのか。

 少し気になった。

 だが、訊けばたぶん踏まれる。

 今は我慢する。

 成長した。

 たぶん。



 ◇



 宿屋の入口には、《北鹿亭》と書かれた古い木札が掛かっていた。

 中へ入ると、食堂の炉には大きな鍋が掛けられ、豆と根菜を煮込んだ匂いが広がっている。奥の卓では商人が三人、帳面を見ながら酒を飲み、壁際では荷運び人が靴を脱いで足を揉んでいた。

 宿の女将は六十歳ほどの小柄な女で、俺たちを見ると、最初にカミラの左肩へ目を向け、次に俺の額にある二つのこぶを見た。

「泊まりかい」

「ああ。一部屋」

 俺が答えると、カミラが横から言った。

「二部屋だ」

「空いているのは一部屋だけだよ」

 女将は迷わず答えた。

「西の関所で書類の照合が増えたとかで、旅人が詰まっている。寝台は一つ。床へ毛布を敷くなら、もう一人は眠れる」

 俺は、極めて慎重に考えた。

 一部屋。

 寝台は一つ。

 負傷したカミラ。

 床。

 俺。

 状況としては、非常に明快である。

「仕方がないな」

「何が」

 カミラが低い声で訊いた。

「旅には、予想外がある」

「顔が嬉しそうだ」

「宿が取れて安心した」

「嘘だな」

 女将は、俺たちのやり取りを聞きながら、何も訊かず鍵を差し出した。

 大人だった。

 本当に。



 ◇



 部屋へ入ると、窓の外には馬小屋の屋根が見えた。

 寝台。

 小さな机。

 椅子。

 洗面器。

 水差し。

 壁際には、外套を掛けるための木釘がある。

 豪華ではない。

 だが、炭焼き小屋よりはるかに暖かい。

「先に傷を洗う」

 カミラが言った。

「俺が手伝う」

「必要ない」

「左肩が上がらない」

「さっき巻いた」

「歩いて汗をかいた。泥も残っているかもしれない」

 正論である。

 かなり。

 カミラは、しばらく俺を見たあと、室内の隅にある簡素な仕切り布へ目を向けた。

「湯を頼んでこい」

「傷を見るなら」

「自分で洗う」

「背中は」

「必要なら呼ぶ」

 残念。

 非常に。

 残念。

 だが、ここで粘れば、呼ばれる可能性まで消える。

 俺は一階へ降り、湯を頼んだ。

 宿の女将は、こちらの顔を見ただけで、少し大きめの洗面器、布、薬草を煮出した湯、乾いた包帯を渡した。

「肩の傷かい」

「そうだ」

「あんたの?」

「主に同行者」

「主に?」

「俺も少し」

 女将は、額のこぶを見た。

「そっちは傷じゃないね」

「人生経験だ」

「女に余計なことをした顔だよ」

 正確だった。

 宿屋の女将は、どこでも怖い。



 ──第三十六部 了


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