第三十六部 二人分の適量と、燃やされないために増やす紙の話 ① 黒松林を抜けて、増やす紙
カミラが目を覚ましたのは、黒松林の梢の向こうへ傾き始めた日差しが、木の根元まで細長く伸びてきた頃だった。
ほんの半刻ほどだったと思う。
それでも、三日近くまともに眠らず、五束の紙を抱えたまま街道を逃げ続けてきた女にとっては、体の奥へ沈んでいた疲労を少しだけ表へ出すには十分な時間だったらしい。俺の肩へ預けられていた額がわずかに動き、袖を掴んだままだった右手にも、ゆっくり力が戻ってくる。
俺は、そのあいだほとんど動かなかった。
眠っている女の頭が自分の肩へ載っている。黒い髪からは、煙と汗と薬草が混ざった匂いがする。少し視線を下げれば、外套の襟元は先ほど巻き直した包帯の厚みでわずかに開き、呼吸に合わせて布の陰が揺れていた。
非常に良い。
かなり良い。
リューリックはいない。ニーナもいない。港町の女将も、木匙を握った女給も、俺がどこを見ているかを一瞬で察して制裁を加える人間もいない。
一人旅には自由がある。
ただし、自由と最低限の理性を失うことは同じではない。
カミラは傷つき、疲れ切り、五束の紙を燃やされないよう守り続けた末に、ようやく眠っている。この状況で余計なことをすれば、傭兵としてではなく人間として終わる。
だから俺は、外套がずれないよう少しだけ直しただけで、あとは木へ背を預けたまま森の音を聞いていた。
鳥の声。
風が枝を揺らす音。
遠くで軋みながら東へ戻っていった荷車の残響。
老人を焼こうとした男へ剣を入れた時の感触も、右手の奥にはまだ残っている。
布を裂き、肉へ入り、骨へ当たった感触は、時間が経てば薄くなる。それでも、消えるわけではない。
傭兵として戦場を歩いてきた以上、初めてではない。必要な時に斬ることを躊躇えば、自分だけでなく、守れるはずだった人間まで死ぬ。
だから斬った。
同じ状況なら、もう一度でも斬る。
それでも、軽くはならない。
俺がそんなことを考えていると、肩へ載っていた頭が少し浮いた。
「どのくらい眠った」
目を開けたカミラが、まだ掠れた声で訊いた。
「半刻ほどだ」
「起こせ」
「起こしても、歩けなかっただろ」
「歩ける」
「寝起きの第一声から嘘をつくな。監察官として問題がある」
カミラは何か言い返そうとしたが、袖を掴んだままだった自分の手に気づき、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
指を離す。
何事もなかったように姿勢を戻す。
だが、耳のあたりへ少しだけ熱が残っている。
「見張りを代わる」
「今さら?」
「あんたも休め」
「非常に魅力的な提案だが、次の宿駅までは歩いた方がいい。林の中で夜を越せば、追っ手が戻ってきた時に面倒になる」
「なら、行く」
カミラは立ち上がろうとした。
一度、膝へ力を入れる。
わずかに揺れる。
すぐに踏ん張り、何もなかったように外套を直す。
俺は、見なかったことにはしなかった。
「休みながら歩く」
「急ぐ必要がある」
「急いで倒れれば、運ぶ荷物が増える。俺は五束と薬草だけで十分だ」
「私を荷物へ数えるな」
「では、同行者として自分の重さを管理しろ」
言うと、カミラはしばらく俺を見た。
追われている女の目だった。
監察官の目でもある。
自分が止まれば、紙も止まる。自分が休めば、追っ手へ距離を詰められる。だから体の悲鳴を無視してでも歩こうとする。
分からないわけではない。
俺も、少し前まで同じことをしていた。
だからこそ、止める必要がある。
「灰鐘関所までは、まだ一日以上あるんだろ」
「ああ。今日は関所の手前にある宿駅まで行く」
「なら、そこで一晩休む。傷も洗う。食事も取る。五束の扱いは、そのあと決める」
「決めることは、もう決まっている」
「何をする」
カミラは、俺が背負った革袋へ視線を向けた。
「増やす」
◇
黒松林を抜けたあとの街道は、緩やかな丘の間を西へ続いていた。
まだ旧五国連合の領域ではない。
道端へ立つ里程標にはグランデル帝国の鷲が刻まれ、荷車の車輪が何度も踏み固めた土の両側には、冬を越したばかりの麦畑が低く広がっている。ところどころに残る雪解け水は細い溝へ流れ込み、風が吹くたび、湿った土と家畜の匂いが混ざった。
遠くには、小さな集落が見える。
石垣。
木造の家。
煙突から上がる薄い煙。
井戸の近くで桶を運ぶ女。
畑の端で、泥だらけになりながら棒切れを振るう子どもたち。
この土地は、俺の故郷ではない。
旧リュカリオンへ入ったわけでもない。
俺が王子だった頃に歩いた宮殿の廊下とも、奴隷として働かされた鉱山とも違う。
ただ、グランデル帝国の土地で暮らす人間がいる。
父を処刑した国であり、俺を奴隷として使った国であり、それでも薬箱を待つ診療所があり、孫の命を救われた老人が、今度は誰かの子どもへ薬を運ぶために荷車を走らせる国でもある。
簡単に憎めれば、もっと楽だったのかもしれない。
だが、簡単ではない。
大陸を歩くほど、敵と味方の境目は、地図に引かれた線ほどきれいではなくなる。
「遅い」
少し前を歩いていたカミラが振り返った。
「景色を見ていた」
「追っ手が戻る可能性はある」
「分かっている。ただ、お前が速すぎる」
「この程度で?」
「左肩を庇って歩いている。右足へ体重を寄せすぎだ。今の速度を続ければ、宿駅へ着く前に反対側の膝まで痛める」
カミラは、わずかに眉を寄せた。
「医者の真似か」
「一人旅を始める前に、十日ほど町医者へ管理された」
「十日?」
「最初は五日の予定だった」
カミラは足を止めた。
「なぜ増えた」
「大人の事情」
「聞きたくないな」
「正確な判断だ」
カミラは、俺の顔を見た。
額には、港町の女将から受け取った餞別のこぶがまだ少し残り、その隣には、先ほど包帯を巻き直した時に木筒で増やされた新しいこぶがある。
「顔を見る限り、相当な事情だったらしい」
「人間は、自由になると少し調子に乗る」
「少し?」
「かなり」
自分で認めると、カミラは小さく息を吐いた。
呆れたのだろう。
ただ、ほんの一瞬だけ、口元が柔らかくなる。
「休むぞ」
俺は道端にある平たい石を指した。
「私は歩ける」
「俺の膝が少し痛い」
嘘ではない。
港町を出る前より回復しているが、船旅のあとから残る違和感は完全には消えていない。黒松林で戦い、荷物も増えた。
ただし、今すぐ止まらなければならないほどではない。
カミラも、それくらいは分かっている。
だから、少しだけ迷った。
「お前を休ませるために言っていると思う?」
「ああ」
「結果として二人とも休めるなら、非常に効率が良い」
カミラは、しばらく俺を見たあと、諦めたように石へ腰を下ろした。
「面倒な言い方だな」
「素直に休めと言えば、休まないだろ」
「必要なら休む」
「三日寝ず、干し肉を二口しか食べず、立ち上がれなくなっても?」
返事はなかった。
図星らしい。
俺は革袋から水筒を出し、先にカミラへ渡した。
「飲め」
「水はある」
「お前の水筒は、さっき空だった」
「見ていたのか」
「同行者の管理だ」
「いつから、そんな役割になった」
「五束を預けられた時から。護衛料だけでなく、管理手当も必要になる」
「勝手に増やすな」
「業務が増えた」
カミラは何か言い返そうとしたが、結局、水筒を受け取った。
最初は一口。
次に、もう少し長く飲む。
本当は喉が渇いていた。
それでも、自分からは止まらない。
頑固。
非常に。
「灰鐘関所で、紙を増やすと言ったな」
俺が訊くと、カミラは水筒の蓋を閉めながら頷いた。
「五束を、そのまま一か所へ預けるつもりはない」
「関所の役人を信用していない?」
「信用していないのではない。信用だけへ頼らない」
カミラは、街道の先へ目を向けた。
「一人の役人が善良でも、その上司が同じとは限らない。一つの部署が正しくても、別の部署が紙を焼くかもしれない。原本だけを隠せば、見つかった時に全部が消える」
「だから写す」
「ああ。灰鐘関所には書記官がいる。軍の伝令便も、商人の荷も、宿駅へ向かう荷車も集まる。五束を一度分け、写しを作り、それぞれ別の経路へ流す」
「帝国軍にも?」
「必要なら」
「敵国だぞ」
「敵国だから安全だとは言わない。ただ、イタリカの中だけへ置けば、監察局内部で握り潰される。帝国の中だけへ置いても、別の誰かが燃やすかもしれない。だから分ける」
隠すのではない。
増やす。
一枚の紙へ、すべてを賭けない。
誰か一人の善意にも、制度一つの正しさにも、頼り切らない。
「燃やす側が、追いつけない数まで?」
俺が言うと、カミラは少しだけ目を細めた。
「ああ」
その言葉には、疲労より強いものがあった。
役所の中で、何度も紙を消されてきた人間の声である。
──第三十六部 了




