第三十五部 五束の紙と、帰れない監察官の話 ④ 五束の紙と、便宜上の同行者
火の前へ座る。
黒パン、干し肉、水、五束の紙、俺の革袋、乾き始めた剣。板壁の隙間から入る風には黒松の匂いが混ざり、少し離れた場所では鳥が鳴いている。
追っ手が戻ってくる可能性はあるため、長く休むことはできない。
それでも、今のカミラを無理に歩かせれば、次の宿駅へ着く前に倒れる。
「ノヴァローマで、何があった」
俺が訊いた。
カミラは、すぐには答えなかった。
五束の紙へ手を置く。
燃やされないように。
逃げないように。
自分の手の下へ押さえるように。
「再審理が始まった」
「ガリレオの件?」
「ああ。薬が届かなかった坑夫。移送されたことにされた人間。働けなくなったあと、名簿から消された家族。証言と記録を、もう一度集めた」
「その紙?」
「一部だ」
カミラは油布を見た。
「原本の一部。写し。照合前の記録。誰が何を変えたか分かるように、改訂前と改訂後の書類も残してある」
「それを持って逃げた」
「逃げるつもりではなかった」
声が少しだけ低くなる。
「監察局の中で、再審理そのものを潰そうとした人間がいる。証言者を外した。保管庫の鍵を替えた。書記を別の部署へ動かした。再審理の席では、記録の不備を理由に審査を止めようとした」
「お前は止めなかった」
「止める理由がない」
「それで、拘束されかけた?」
「ああ」
カミラは短く息を吐いた。
「監察官が公文書を盗んだ。再審理を混乱させた。国外勢力と接触した。そういう形にしたかったらしい」
「本当に接触していた?」
「坑夫と、市場の女と、荷車の御者には接触した」
「国外勢力ではないな」
「中枢から見れば、都合の悪い市民は、国外勢力と大差ないのかもしれない」
笑えない。
本当に。
「誰が逃がした」
「何人もいる。坑夫。市場で働く女。以前、薬を運んだ商人。名前を聞いていない人間もいる」
「名前を聞かなかった?」
「聞けば、書ける。書けば、奪われる」
カミラは言った。
「今は、知らない方が守れる名前もある」
紙を守る女が、名前を記録しないことで人を守っている。
矛盾しているようで、矛盾していない。
「燃やせば、追われなくなる」
俺が言うと、カミラは首を振った。
「燃やせば、あいつらの望みどおりになる」
「紙は、そんなに重いか」
「重い」
迷わない。
「死んだ人間は、声を上げられない。薬を受け取れなかった子どもも、移送されたことにされた坑夫も、働けなくなって名簿から外された人間も、紙が消えれば最初からいなかったことにされる」
カミラは五束の紙を見た。
「役所は、人間を守るために名前を書く。だが、同じ紙で人間を消すこともできる。だから残す。燃えるからこそ、持って歩く」
「国家に切られても?」
「ああ」
「国家を諦めない?」
「ああ」
カミラは顔を上げた。
「役所が腐ったからといって、坑夫まで腐ったことにはならない。監察局が私を切ったからといって、市場でパンを売る女まで捨てる理由にはならない。国家は、役所だけでできているわけではない」
低い声。
飾らない言葉。
それでも強い。
この女は、国を背負うということを、旗や議場だけでは語らない。
薬を待つ子ども。
坑夫。
市場の女。
荷車の老人。
そういう人間の顔で語る。
真面目すぎる。
頑固すぎる。
そして、格好いい。
「何だ」
カミラが訊いた。
「少し、格好いいと思った」
言ってから、少しだけ後悔した。
カミラは黙った。
頬へ、ほんの少しだけ熱が差す。
火のせいかもしれない。
たぶん、そういうことにしておく。
「気味が悪いな」
「褒めたのに」
「普段の言動が悪い」
「正確だ」
「それから」
「何だ」
「今、どこを見ている」
俺の視線は、少しだけ、本当に少しだけ、外套の隙間へ落ちていた。
「国家」
「どこに国家がある」
「人間の中に」
カミラは無言で木筒を持ち上げた。
「待て。今の流れで殴るのは、政治的に良くない」
「安心しろ」
「何を」
「国家ではなく、私個人として殴る」
木筒が額へ当たった。
「痛い」
「自業自得だ」
政治と色欲は、同じ人間の中でかなり自然に共存する。
◇
日が傾き始める頃、俺たちは炭焼き小屋を出た。
薬箱から、包帯、熱冷まし、止血粉、乾燥薬草を持てるだけ分ける。重い物は少ないが、二人分の荷物としてはかなり増えた。
「五束は、俺が持つ」
俺が言うと、カミラは首を振った。
「私が持つ」
「肩が痛いだろ」
「右手で持てる」
「転んだら?」
「転ばない」
「追っ手が来たら?」
「手放さない」
「だから、俺が持つ」
カミラは、すぐには渡さなかった。
紙を守るために、ここまで逃げてきた。
誰かへ預けること自体が怖いのだろう。
たとえ、相手が俺でも。
「燃やさない」
俺は言った。
「売らない」
「売るつもりだったのか」
「非常に高ければ、一度は考える」
カミラの目が細くなる。
「考えるだけだ」
「最低だな」
「だが、売らない」
少しだけ間が空く。
「持って帰る」
言い直す。
「お前ごと」
カミラは俺を見た。
黒松の枝の間から差す夕方の光が、短い黒髪へ落ちる。
疲れている。
警戒している。
それでも、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「便宜上だ」
「何が」
「預ける。灰鐘関所へ着くまで」
「便宜上」
「ああ」
五束の紙を受け取る。
思っていたより重い。
紙そのものの重さだけではない。
名前。
証言。
薬。
消された人間。
カミラが十日近く持って歩いたもの。
それを革袋の内側へ入れる。
「ところで」
「何だ」
「護衛料は」
カミラが止まった。
「今、訊くのか」
「重要だ。命を狙われ、荷物も増えた。危険手当も必要になる」
「払えない」
「では、出世払い」
「監察官として復帰できる保証はない」
「国家へ請求する」
「どこの」
「お前が諦めていない国」
カミラは、しばらく俺を見た。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「高くつくぞ」
「構わない。俺は、報酬の高い仕事が好きだ」
「嘘だな」
「なぜ」
「危険な仕事は嫌いだろ」
「よく分かっている」
「矛盾している」
「高くて安全な仕事が好きだ」
「今は、どちらでもない」
「最悪だな」
「ああ」
カミラは言った。
「最悪だ」
それでも、二人で歩き始める。
◇
夕暮れ前、黒松林を抜ける手前で一度だけ休んだ。
カミラは木の根元へ腰を下ろし、目を閉じた。
「少しだけ」
「眠れ」
「見張りは」
「俺がする」
「余計なことをするな」
「何を」
「あんたは、分からないと言う時ほど分かっている」
監察官は怖い。
「五束は」
「持っている」
「燃やすな」
「燃やさない」
「逃げるな」
「逃げない」
カミラは、それでもしばらく目を閉じなかった。
だが、限界が来たのだろう。
呼吸が少しずつ深くなる。
肩の力が抜ける。
体が傾く。
俺の肩へ、額が触れた。
止まる。
考える。
非常に良い。
かなり良い。
誰もいない。
リューリックはいない。
港町の女将もいない。
止める人間はいない。
自由だ。
ただし、カミラは疲れ切っている。
傷もある。
五束の紙を守り続けたあとだ。
この状況で余計なことをすれば、たぶん人として終わる。
俺にも最低限の理性はある。
本当に、最低限だが。
外套を少しだけ直し、肩へ掛ける。
起こさないように。
その時、カミラの右手が動いた。
俺の袖を掴む。
「逃げるな」
眠ったままの低い声。
「逃げない」
「紙を」
「燃やさない」
「そうか」
カミラは、また眠る。
袖は離さない。
俺は木へ背を預けた。
一人旅は、十日と一日で終わった。
まだ、旧五国連合の外縁までは遠い。
今いる場所も、昔からのグランデル帝国領だ。
旧リュカリオンの文字も、削られた王家の印も、懐かしい景色も、まだ出てこない。
だが、西へ続く道の上で、便宜上、同行者が一人増えた。
非常に面倒で、かなり頑固で、驚くほど脇の甘い、帰れない監察官だった。
──第三十五部 了




