第三十五部 五束の紙と、帰れない監察官の話 ③ 炭焼き窯と、変わらない美徳
荷車が見えなくなったあと、カミラは炭焼き窯の脇へ腰を下ろした。
本人としては、少し休むつもりだったのだろう。
膝から崩れたわけではない。
背筋も伸びている。
だが、立ち上がろうとして、立てなかった。
「いつから寝ていない」
俺が訊くと、カミラは少し考えた。
「二日ほどだ」
「ほど?」
「三日かもしれない」
「最後に食べたのは」
「昨日」
「何を」
「干し肉」
「どのくらい」
カミラは、しばらく黙った。
「二口」
「それは食事ではない」
「歩けている」
「今、立てなかっただろ」
「少し休めば立てる」
「食べろ」
革袋から黒パンと干し肉を出し、水筒も渡す。
カミラは受け取ろうとしなかった。
「腹は減っていない」
「知るか。書類を守るなら、持って歩く人間が先に倒れるな」
カミラは黒パンを見て、次に俺の顔を見る。
「よく、そんな顔で人へ言えるな」
「どんな顔だ」
「少し前まで、傷を悪化させて寝台へ戻される側だった顔だ」
「過去の話だ」
「何日前だ」
少しだけ考える。
「数日前」
「過去だな」
「そうだろ」
「反省していない顔でもある」
港町の女将、寝台、湯場、腰、町医者から言い渡された延長。
かなり反省した。
主に、次はもう少し計画的に楽しむ必要があるという意味で。
「今、何を考えた」
カミラが訊いた。
「食事」
「嘘だ」
「監察官は怖いな」
「顔が最低だった」
「顔で分かるのか」
「分かる」
宿屋の女将と同じである。
世界は怖い。
「食べろ」
もう一度、黒パンを渡す。
今度はカミラも受け取った。
最初の一口は小さく、義務のように噛んでいる。
だが、二口目から少しだけ速くなった。
本当は空腹だった。
言わない。
今は言わない。
言えば、たぶん、また蹴られる。
◇
炭焼き窯の裏には、屋根が半分崩れた古い小屋が残っていた。
板壁の隙間から風が入り、床も一部は抜けている。それでも林の中で包帯を巻き直すよりはましだった。
乾いた枝を集め、小さな火を起こす。
黒松脂の匂いが残っているため、火種は壁から離した。
薬箱から、傷を洗う酒と新しい布を出す。
カミラは壁へ背を預け、五束の紙を膝の上へ置いていた。油布で包まれ、紐で固く縛られている。
追っ手と戦った時も、火を消した時も、老人を守った時も、手放さなかった。
「外套を脱げ」
俺が言うと、カミラは顔を上げた。
「自分でできる」
「左手が上がらない」
「右手でやる」
「背中まで見える?」
「見えなくても構わない」
「構う。傷口へ布の切れ端が残っていれば、膿む」
カミラは、しばらく俺を見た。
「必要なところだけ見ろ」
「努力する」
「努力ではなく、守れ」
「最近、流行っているのか」
「早くしろ」
外套の紐へ手を掛ける。
結び目は汗と血で固くなっていた。
近い。
黒い髪には、煙と雨と汗の匂いが残っている。
紐をほどき、外套を肩から落とす。
裂けた下衣。
包帯。
白い肌。
傷。
鎖骨。
胸元。
以前、宿で、本当に偶然、誰にも見られるつもりのなかったカミラの姿を、俺が見てしまったことがある。
今、目の前にいる監察官は、その時の女と同じ人間である。
同じ人間だからこそ、思い出してはいけない。
絶対に。
だが、人間の頭は、禁止されたことほど鮮明に思い出すようにできている。
「今、何を考えた」
カミラが言った。
「傷の位置」
「目が泳いだ」
「煙が入った」
「小屋の中に煙は来ていない」
「細かいな」
「監察官だ」
包帯の端を外す。
鉤槍は肩の表面を浅く裂いていた。深くはない。ただし、以前からあった擦り傷の上へ重なり、血と泥が入っている。
「酒を使う。沁みるぞ」
「やれ」
布へ酒を含ませ、傷へ当てる。
カミラの肩が一度だけ震えた。
「痛い?」
「かなり痛い」
正直だった。
以前より、ほんの少しだけ、無理に隠さなくなったのかもしれない。
布を替える。
新しい包帯を巻く。
背中から肩、脇の下、胸元へ近い位置まで布を回す。
どうしても近い。
俺は、かなり真面目に手を動かした。
視線も、必要な場所だけへ置いた。
主に。
「手が止まった」
カミラが言った。
「包帯の角度を考えている」
「視線も止まっている」
「安全確認だ」
「何の」
難しい質問だった。
答えを探している間に、カミラの右手が動いた。
拳ではない。
包帯を巻いていた木筒。
額へ当たる。
「痛い」
「巻け」
「暴力では」
「次は拳にする」
額には、港町の女将から受け取った餞別のこぶが、まだ少し残っている。
その隣へ、新しいこぶが増えた。
一人旅は終わった。
自由も、思ったより早く終わったらしい。
◇
包帯を巻き終えると、カミラは外套を戻そうとした。
右手だけで紐を結ぶ。
一度、失敗する。
二度目も、結び目が緩む。
三度目も、うまくいかない。
俺は黙って見ていた。
「貸せ」
「自分でできる」
「できていない」
「できる」
四度目も、できない。
カミラはしばらく紐を見たあと、無言でこちらへ差し出した。
強い。
有能。
国家を背負う。
追っ手へ鉄棒を振るう。
老人を守る。
紙を守る。
だが、生活の細かいところでは妙に脇が甘い。
非常に良い。
「何だ」
「何も」
「顔が最低だ」
「宿屋でも言われた」
「何をしていた」
「大人の事情」
「聞きたくない」
「正確だ」
今度こそ、結び目だけを見る。
首元。
外套。
紐。
鎖骨。
少しだけ。
本当に少しだけ。
これは不可抗力である。
「終わった」
俺が言うと、カミラは結び目を確かめた。
「妙に丁寧だな」
「旅人として成長した」
「視線だけは成長していない」
「人間には、変わらない美徳もある」
「最低だな」
否定はできない。
──第三十五部 了




