第三十五部 五束の紙と、帰れない監察官の話 ② 捕虜の紙片と、御者の別れ
捕らえた男を荷台へ載せる前に、持ち物を調べた。
短剣、火打石、黒松脂を入れた小瓶、乾いた黒パン、銅貨が数枚。身分を示す札も兵章もない。ただし、外套の内側には糸で縫い込まれた小さな紙片があった。
カミラが糸を切り、紙を開く。
文字は少ない。
五束。回収。不能時、焼却。証人は不要。
送り手の名前も、受け取る人間の名前も書かれていない。
紙の端には、細い青線が一本引かれていた。
「青いインクか」
俺が訊くと、カミラはすぐに首を振った。
「違う」
「見た目は似ている」
「似せている可能性はある。だが、同じものとして扱うな」
カミラは紙を光へかざした。
「ヴィクトル・グレイの地下出版網が使う青いインクは、記事を流すためのものだ。役所が隠したことを市民へ知らせるために使う。この細線は、誰かを消すための印かもしれない。役割が違う」
「同じ青でも、別物?」
「ああ。分からないものを、似ているというだけで一つへ束ねれば、相手が喜ぶ」
カミラは、さらに死んだ男の外套も調べた。
腰の内側にある厚い布の縫い目には、爪ほどの大きさしかない木片が隠されていた。
刻まれているのは、円。
その中に、目。
「これも、青い細線とは別に保管する」
「円の中の目」
「ガリレオでも見た」
カミラの声が低くなる。
「ただし、全体像はまだ分からない。革命内部の古い流れなのか、カラン側とつながる別の組織なのか、それとも誰かがそう見せようとしているのか」
「断定しない」
「ああ」
「監察官らしいな」
「早く答えを作った人間から、間違える」
小さな木片、細い青線、黒い外套、紙を選んで燃やす火。それぞれが、どこまでつながっているのかは分からない。
ただ、同じ場所へ置かれていること自体が不気味だった。
誰かが遠くから、人間の名前と荷物を見ている。
そんな感じがする。
◇
死体を置き去りにはできなかった。
老人の荷車へ載せれば、捕らえた男と薬箱と紙箱で重量が増え、壊れかけた車輪が完全に潰れる。だから死体は枝道から見える場所へ移し、黒い外套を掛け、折れた枝を三本立てた。
巡察が来れば、見つけられる。
少なくとも、誰にも知られないまま森へ埋もれることはない。
男の体を動かした時、傷口からまだ少し血が出た。
剣を入れた感触が右手へ戻る。
布を裂き、肉へ入り、骨へ当たり、その奥まで届いた。
傭兵として初めてではない。
戦場では、数える暇もなかった。
それでも、何も感じなくなるわけではない。
老人ごと焼けと言った。
火壺を投げた。
止める時間はなかった。
だから斬った。
必要だった。
だが、必要だったと何度言っても、死んだ人間が軽くなるわけではない。
「迷っているのか」
隣から、カミラが訊いた。
責める声ではない。
慰める声でもない。
ただ、確かめている。
「いや」
俺は答えた。
「迷ってはいない。あの場面なら、もう一度でも斬る。だが、何も感じないわけではない」
「それでいい」
カミラは死体へ目を落とした。
「必要だったことも、軽くなかったことも、両方覚えておけ。どちらか一つだけにすると、次に間違える」
簡単に許さない。
簡単に責めない。
便利な慰めへ逃げない。
カミラらしいと思った。
「あんたも、人を殺したことはあるのか」
訊くと、カミラは少しだけ間を置いた。
「ある」
それだけだった。
いつ、どこで、誰を。
今は訊かなかった。
紙にも、人にも、開く順番がある。
たぶん、この女ならそう言う。
◇
捕らえた男を荷台へ載せ、両手、足首、荷台の柱を縄でつないだ。老人へは、途中で何があっても一人では縄を外さないように伝える。
男は一度も口を開かなかった。
ただし、カミラが近づくと、ほんの少しだけ目が動く。
五束。
男たちは、カミラが持っている紙束の数を知っていた。
どこで数えた。
誰が見た。
ノヴァローマを出る前か、逃亡中か、街道か、宿駅か、関所か。
「最後に、一つだけ訊く」
カミラが、捕らえた男へ言った。
「五束だと、誰に教わった」
男は答えない。
「灰鐘関所か」
ほんの一瞬だった。
だが、男の瞳が動いた。
カミラは見逃さなかった。
「そうか」
それ以上は訊かない。
俺は、少しだけ意外だった。
「口を割らせないのか」
「ここで痛めつけても、正しい答えが出るとは限らない」
カミラは縄の結び目を確かめながら答えた。
「怯えれば、知っている言葉を並べる。痛めれば、こちらが聞きたい言葉を言う。生きたまま渡して、誰が引き取りに来るかを見る。引き取ったあと、どこへ消えるかも追う」
捕らえた男だけを見ていない。
その先にいる、受け取りに来る人間、命令を出した人間、関所、書類の流れまで見ている。
「灰鐘関所へは向かうな」
カミラは老人へ言った。
「まず東の宿駅へ戻れ。主人へ、黒松林で襲撃があったと伝えろ。そのあと、複数の巡察兵がいる場所で引き渡せ。灰鐘関所から来たと言う人間が現れても、単独なら渡すな」
「承知しやした」
老人は御者台へ上がり、馬へ声を掛けた。
荷車が軋む。
傷んだ左車輪が土を削り、深い轍を残しながら東へ向きを変える。
「ロドさん」
老人が振り返った。
「ああ」
「戻ってくだせえ」
少し前までなら、努力する、と答えたかもしれない。
便利な言葉だった。
守れなかった時でも、努力はしたと言える。
だが、港町の女将にも言われた。
努力ではなく、守りな。
「戻る」
俺は答えた。
「生きて」
老人は少しだけ笑った。
「それがよろしい」
荷車はゆっくり東へ向かい、やがて黒松の枝に隠れ、傷んだ車輪の音も聞こえなくなった。
──第三十五部 了




