第三十五部 五束の紙と、帰れない監察官の話 ① フードが落ちた女、ロド・カナリ
フードが外れた瞬間、俺はようやく目の前の女が誰なのかを理解した。
短く切った黒髪には煤が付き、頬にも薄い汚れが残っている。乾いた唇の端には血が滲み、左肩を覆っていた外套は鉤槍で裂かれ、その奥に巻かれた包帯にも新しい赤が広がっていた。それでも目だけは変わっていない。疲れているはずなのに、傷ついているはずなのに、何日もまともに眠れていないはずなのに、まだ何一つ諦めていない目をしている。
カミラ・パヴェルだった。
ノヴァローマで再審理を進め、役所の中へ隠された歪みを一枚ずつ拾い上げていたイタリカの監察官。現場では誰より真面目で、融通が利かず、危険を承知で自分から前へ出る。その一方で、私生活では妙なところで警戒が抜け落ち、以前には宿で、到底他人へ見られるつもりのなかった姿まで俺へ見られた女でもある。
その女が、黒松林の奥で俺を見ていた。
「遅い」
再会して最初に出てきた言葉は、それだった。
黒松脂の火を消したあとの湿った煙が林の中へ細く漂い、古い炭焼き窯の周囲には灰が積もり、折れた枝の隙間から差し込む朝の光が煙の流れに合わせて揺れている。少し離れた場所には、俺が斬った男が倒れていた。胸元から流れた血はもう黒い土へ染み込み始め、剣を引き抜いた時に手の甲へ飛んだ血だけが、まだ完全には乾いていない。
もう一人の男は生きている。顎を打たれ、太腿へ傷を負い、両手を縛られたまま土の上へ転がされていた。短剣も鉤槍も手の届かない場所へ蹴り出してあるが、目だけは死んでいない。
白髭の御者は、傾いた荷車の脇で馬を宥めていた。左の車輪はほとんど外れかけ、軸も途中から割れている。港の薬問屋で見かけた時から傷んでいたが、ここまで無理を重ねれば、もう西へ走ることはできない。
その全部を見渡してから、俺はもう一度カミラへ目を戻した。
「普通は、もう少し再会を喜ぶものではないか」
「喜んでいる暇があるように見えるか」
「見えないな」
「なら、先に剣を拭け。血で滑る」
ぶっきらぼうで、現実的で、再会の感想より先に手元を見る。以前と何も変わらないことへ、俺は少しだけ安心した。
ただし、視線は剣より先にカミラの左肩へ移った。
傷の確認である。鉤槍は外套を裂き、包帯の端まで引っ掛けている。血が滲んでいる以上、どの程度深く入ったのかを見る必要がある。裂けた布の奥には白い肩があり、鎖骨があり、その下には外套の陰が落ちている。
俺は極めて真剣に観察した。
少なくとも、最初の二秒ほどは本当に傷だけを見ていた。
「どこまで確認するつもりだ」
カミラの声が一段低くなった。
「傷の位置を正確に把握するには、少し時間が必要だ」
「視線が下がった」
「重力は、帝国内でも働く」
カミラは左肩を痛めている。さすがに拳を振れば自分にも響くと分かっているらしい。代わりに、右足の踵が俺の脛へ正確に入った。
「痛い」
「傷だけ見ろ」
「見ていた」
「途中から違った」
「監察官は細かいな」
「次は、あんたの傷を増やす」
再会して最初に蹴られた。
非常にカミラらしい。
やはり、少し安心した。
◇
「お二人とも」
白髭の御者が、遠慮がちに声を掛けた。
「古い知り合いなのは分かりやしたが、まずは、この男をどうするか決めていただけると助かりやす」
老人の視線の先で、縛られた男がわずかに身じろぎした。
俺はようやく剣へ残った血を拭った。死んだ男の外套を使うことには少しだけ躊躇があったが、血を残したまま鞘へ戻せば刃は錆びる。錆びた剣は、次に守れるはずの人間を守れなくする。
必要なことは、必要な順番でやる。
死んだ人間を軽く扱うことと、現実を受け入れることは同じではない。
「じいさん、怪我は」
「腕を擦ったくらいでさあ。馬も怯えておりやすが、足は折れていません。ただ、荷車は見てのとおりです」
老人は、傾いた荷台を見上げた。
積まれているのは薬箱と紙箱で、薬箱には熱冷ましに使う乾燥樹皮、止血用の粉、煮沸前の布、傷を洗うための酒が入っている。紙箱には宿駅や診療所で使う受領書、簡単な診療記録、移送札の控えが束ねられていた。
薬だけでは、次へつながらない。誰へ何を渡したか、どこから運んだか、不足している物は何かを紙へ残さなければ、届いたはずの薬も途中で消える。
「港で見た時より悪くなっているな」
「左の車輪が途中から、どうにも言うことを聞かなくなりまして。いったん止めて楔を打ち直したんですが、その間に二騎が追いついてきやした」
「港から追われていたのか」
「最初は気づきませんでした。ただ、最初の宿駅へ入る前に、妙に距離を取る騎馬を一度見ておりやす。荷車へ近づかず、離れもしない。嫌な感じがしたので、本線を外れて、この枝道へ入りやした」
「炭焼き小屋へ隠れるつもりだった?」
「ええ。古い窯と小屋が残っていると聞いたことがありやしたから、夜を越せれば朝には別の荷車を頼めると思いまして」
老人は馬の首を撫でながら、苦く笑った。
「傷んだ車輪で入る道ではありませんでしたな。本線を進めば追いつかれる。枝道へ入れば車輪が保たない。どちらを選んでも、あまり良い目はありませんでした」
「薬箱だけ置いて逃げることもできた」
「できやした」
「なぜ残った」
「待っている方がおりやす」
老人は荷台へ積まれた薬箱へ目を向けた。
「西の宿駅の先に、小さな診療所がある。冬を越したあとから、熱を出す子どもが増えましてな。大きな流行病ではないと聞いておりやすが、小さい子どもは熱が続くだけでも危ない」
「家族がいる?」
「俺の家族ではありません。ただ、孫が昔、熱で死にかけやした。あの時は薬が間に合った。だから今度は、俺が運ぶ側へ回るだけでさあ」
単純な話だった。
だからこそ、重い。
家族だから守る。金になるから運ぶ。国の命令だから働く。どれも分かりやすい理由ではあるが、世の中はそれだけで動いているわけではない。以前、自分の孫へ届いた薬があった。今度は、名前も知らない子どもへ運ぶ。その程度の小さな順番で、人は誰かの命をつないでいる。
カミラは老人を見ていた。
少し前まで、自分の体を盾にして紙束を守っていた女であり、今も左肩から血を流している。
「東の宿駅へ戻れ」
カミラが言った。
「ですが、薬は」
「荷車はもう走れない。無理をすれば、途中で完全に壊れる。薬箱の一部はこちらで持つ。残りは東の宿駅へ戻し、別の荷車へ積み替えろ」
俺はカミラを見る。
「こちらで持つ?」
「あんたも持つ」
「俺も?」
「異論があるか」
「いや、俺が言おうと思っていた」
「遅い」
「今日は、よく言われるな」
カミラの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのか、疲れで表情が崩れただけなのか、まだはっきりとは分からない。
「紙箱は、じいさんが東へ戻してくれ。捕らえた男も荷台へ載せる。宿駅へ着いたら主人を通して、正規の帝国巡察へ渡せ」
老人の顔に、不安が浮かぶ。
「帝国兵なら、誰でも良いわけではない?」
「誰でも良いわけではない」
カミラは、老人にも分かるように言葉を選んだ。
「鷲の印がある制服を着ていても、単独で来た人間へは渡すな。宿駅の主人、ほかの旅人、複数の兵士がいる場所で話せ。命令書も見せてもらえ。誰へ引き渡したか、必ず名前を残せ」
「そこまで」
「必要だ」
机の上で書類を読むだけの監察官ではない。
誰が聞いても理解できる形にして、現場へ落とし込む。
カミラは、たぶん何度も同じことをしてきた。
「それから、あんた自身も戻れ」
カミラは続けた。
「薬箱と紙箱を守るために死ねば、次に薬を運ぶ人間が一人減る。帰る場所があるなら、帰れ」
老人は少し黙ったあと、深く頭を下げた。
「承知しやした。監察官」
「今は、監察官ではない」
「俺には、そう見えやす」
カミラは、それ以上否定しなかった。
──第三十五部 了




