第三十四部 名を聞く前に、助けた女の話 ④ 焦げた草と、カミラ・パヴェル
火が広がっていた。
倒れた男が落とした土瓶から漏れた黒松脂が、枯れ草へ移っている。
「水!」
老人が叫ぶ。
荷車の脇へ積んであった桶を取る。
俺も剣を土へ置き、外套で火を叩いた。
煙。
灰。
熱。
肩が痛い。
腰も痛い。
女将の顔が、一瞬だけ浮かんだ。
生きて戻れ。
非常に正しい。
帰った時。
腰を痛めた理由を、どこまで説明すべきだろう。
戦闘。
火。
女。
全部である。
たぶん。
正直に話すと、木匙が飛んでくる。
「そっちへ水を!」
フードの女が言った。
「ああ!」
考えるのを止める。
桶を受け取る。
火へ掛ける。
水が音を立てる。
白い煙が立ち上がる。
老人も斧の背で燃えた草を叩く。
女は片手だけで紙束を抱え、もう片方の手で外套を火へ押しつけた。
「肩を使うな!」
俺が言う。
「今は、それどころではない!」
「見れば分かる!」
「あんたも腰を庇っているだろ!」
「これは」
少し考える。
「戦闘前からだ」
「なぜだ!」
「説明すると長い!」
「聞きたくもない!」
正確だった。
火は、大きくならなかった。
黒松脂が燃えた範囲だけ。
枯れ草。
低い枝。
荷車の端。
紙箱は、まだ燃えていない。
薬箱も。
老人も。
女も。
俺も。
生きている。
それで十分だった。
今のところは。
◇
煙が薄くなり始めた頃。
俺は、ようやく剣を拾った。
血が残っている。
倒れた男を見る。
黒い外套。
顔を覆う布。
短剣。
火壺。
兵章はない。
制服もない。
ただし。
素人でもない。
鉤槍の男も同じだった。
街道の盗賊ではない。
金を取るために荷車を襲ったのでもない。
五束。
回収できないなら燃やす。
紙だけを選ぶ火。
少しずつ。
同じ場所へつながっている。
「怪我は」
俺が訊いた。
白髭の老人は、自分の腕と足を確かめた。
「擦り傷くらいでさあ。馬も、驚いておりやすが、立てます」
「女は」
訊く。
フードの女は、答えなかった。
左肩。
外套が裂けている。
血。
深くはない。
だが。
それだけではない。
立ち方が少しおかしい。
疲れている。
かなり。
「座れ」
言う。
「必要ない」
低い声。
「必要ある」
「歩ける」
「歩けるかではなく、座るべきかを訊いている」
少しだけ間が空いた。
その言葉を。
最近、どこかで聞いた気がする。
誰が言った。
たぶん。
俺だ。
女は、紙束を抱え直した。
「先に、縛った男を確認する」
「逃げない」
「確認する」
「頑固だな」
「現場では、よく褒め言葉だった」
低い声。
短い返し。
聞いたことがある。
煙の向こうで。
女が、こちらを見た。
風が吹く。
フードが少しずれた。
黒い髪。
短い。
煤のついた頬。
乾いた唇。
疲れ切っている。
左肩から血を流している。
それでも。
まだ何一つ諦めていない目。
知っている。
俺は、その目を知っている。
「お前」
言葉が出る。
女は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
怒っているようにも見える。
安心したようにも見える。
そのどちらでもあるようにも見える。
低い声で。
短く言った。
「遅い」
フードが落ちる。
カミラ・パヴェルだった。
──第三十四部 了




