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第三十四部 名を聞く前に、助けた女の話 ③ 火壺の男と、伏せろ

「伏せろ!」

 叫ぶ。

 火壺の男が振り返った。

 遅い。

 黒松の幹を蹴り、右足で踏み込む。

 腰へ痛みが走る。

 無視する。

 剣を振る。

 男も短剣を上げた。

 受けるつもりだったのだろう。

 だが、短剣では足りない。

 俺の刃は男の右腕を外側から押し退け、そのまま脇の下へ入った。

 布。

 革。

 肉。

 肋骨へ一度だけ当たる。

 硬い感触。

 その内側へ滑る。

 剣先が止まる。

 男の口が開いた。

 声は出ない。

 火壺が手から落ちた。

 土へ当たり、割れる。

 黒松脂へ火が移る。

 赤い炎が低く広がった。

 剣を引き抜く。

 熱い血が、手の甲へ飛ぶ。

 男は二歩だけ下がり、膝から崩れた。

 土へ倒れる。

 もう動かない。

 一人。

 斬った。

 必要だった。

 だが。

 必要であることと、軽いことは違う。

 考えるのは、あとだ。

 鉤槍が来る。



 ◇



 横から振られた鉤が、左肩を狙った。

 半歩下がる。

 間に合わない。

 剣で受ける。

 金属が鳴る。

 衝撃が肩へ抜ける。

「痛い」

 声が出た。

 男は答えない。

 当然だ。

 鉤を引く。

 刃を絡め取るつもりだ。

 俺は剣を離さない。

 右膝を庇いながら、体を横へずらす。

 足元。

 火。

 倒れた男。

 土瓶の破片。

 荷車。

 老人。

 女。

 全部が狭い場所へ詰まっている。

 鉤槍の男は、俺だけを見ていた。

 だから。

 フードの女が動いた。

 外套の下から、短い鉄棒を抜く。

 剣ではない。

 警棒に近い。

 迷いなく、男の手首へ叩きつける。

 鈍い音。

 男の指が緩む。

 鉤槍が少し落ちる。

 俺は剣を引いた。

 今度は刃を使わない。

 柄頭を、男の顎へ叩き込む。

 男の頭が跳ねた。

 それでも倒れない。

 強い。

 戦い慣れている。

 男は片手で鉤槍を持ち直し、女へ向けた。

 狙いが変わった。

 紙束。

 女。

 どちらでもいい。

 奪えないなら壊す。

 そういう動きだった。

「下がれ!」

 俺が叫ぶ。

 女は下がらない。

 左肩を庇いながら、老人の前へ立つ。

「爺さんを先に!」

 低い声だった。

 煙で掠れている。

 聞いたことがある気もした。

 だが、今は考えない。

 鉤槍が突き出される。

 女は避ける。

 完全には避けられない。

 外套の肩が裂ける。

 赤い血が滲む。

 次が来る。

 俺は間へ入った。

 剣で鉤槍を下へ叩く。

 肩が痛む。

 腰も痛い。

 膝も笑いそうになる。

 それでも。

 一度休んだ。

 十日掛けて治した。

 靴底も直した。

 自分で食べた。

 眠った。

 だから。

 今は、立てる。



 ◇



「じいさん!」

 俺は叫んだ。

「荷車を少し下げられるか!」

「少しなら!」

 老人が手綱を引く。

 馬がいななく。

 荷車が動く。

 傾いた左車輪が土を削り、荷台が大きく揺れた。

 鉤槍の男が振り返る。

 一瞬。

 それで十分だった。

 俺は剣を下から払う。

 男の太腿を浅く裂く。

 血が出る。

 足が崩れる。

 男は片膝をついた。

 フードの女が踏み込む。

 鉄棒を、今度は男の肘へ打ちつける。

 鉤槍が落ちる。

 老人の荷車が、もう一度軋んだ。

 左車輪が外れる。

 傾いた荷台が道の中央へ滑り、男の逃げ道を半分塞ぐ。

 男は立ち上がろうとした。

 俺は剣先を喉元へ置いた。

「動くな」

 男の目が、こちらを見る。

 怒りではない。

 恐怖でもない。

 計算している。

 逃げられるか。

 俺を殺せるか。

 女を奪えるか。

 老人を人質にできるか。

 全部。

「短剣を捨てろ」

 言う。

 男は、左手を少し動かした。

「捨てろ」

 動かない。

 剣先を、ほんの少し押す。

 皮膚が切れる。

 赤い線。

「今は、斬らなくて済む」

 俺は言った。

「次は知らない」

 男は、腰の短剣を抜いた。

 ゆっくり。

 土へ落とす。

 乾いた音。

 女が男の背後へ回り、外套の下から細縄を取り出した。

 手際がいい。

 右手。

 足首。

 膝。

 逃げられない位置へ縛る。

 その間も。

 紙束は離さない。

 鉤槍の男は抵抗しなかった。

 たぶん。

 ここで死ぬ方が損だと判断した。

 現実的だった。

 俺も、そういう判断は嫌いではない。



 ──第三十四部 了


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