第三十四部 名を聞く前に、助けた女の話 ② 炭焼き道、剣を抜く
炭焼き道は、本線から少し離れるだけで急に狭くなった。
両側から黒松の枝が伸び、朝の光を細かく遮っている。古い轍には落ち葉が溜まり、使われなくなった道の中央には細い草が生えていた。
ただし。
昨日から今日に掛けて通った荷車の跡だけは、新しい。
左側の轍が深い。
時々、土の表面へ黒い筋が残る。
車軸へ塗った松脂。
あるいは、壺から漏れた黒松脂。
どちらかは分からない。
少し進むと、道の端に折れた木片が落ちていた。
拾う。
車輪の楔。
古い。
片側が割れている。
その先では、轍が急に蛇行していた。
老人は、まっすぐ走れなくなった荷車を、どうにか林の奥まで運んだ。
二日前に港を出た。
順調なら、その日の夕方には宿駅へ着く。
だが、車輪が悪化した。
どこかで修理した。
その間に、二騎へ追いつかれた。
追っ手の存在へ気づき、昨日の昼頃には枝道へ入った。
夜の間は、林の奥で隠れた。
朝。
追っ手が戻った。
時間の辻褄は合う。
問題は。
追っ手が、何を探しているか。
薬箱。
紙箱。
女。
全部か。
少し前までの俺なら、ここで走った。
だが。
走らない。
足元を見る。
耳を澄ます。
黒松の葉が擦れる音。
鳥。
風。
遠くで、水が落ちる音。
それから。
馬の悲鳴。
短い。
鋭い。
林の奥から聞こえた。
次に、男の怒鳴り声。
「紙を置いていけ!」
俺は剣へ手を掛けた。
◇
炭焼き道は、少し先で開けていた。
古い窯。
半分崩れた小屋。
黒い灰。
切り倒されたまま腐り始めた木。
その中央に、荷車が止まっている。
左の車輪は完全に傾いていた。軸が割れ、荷台も少し沈んでいる。馬は鼻息を荒くし、後ろ脚で土を蹴っていた。
御者台の横には、白い髭の老人がいる。
片手で手綱を握り、もう片方の手には短い斧。
腰が引けている。
だが。
逃げてはいない。
荷車と老人の間に、フードを深く被った女が立っていた。
灰色の外套。
背は高くない。
左肩を少し下げている。
外套の下へ、油布で包んだ紙束を抱えていた。
女の前には、男が二人。
どちらも黒い外套。
制服ではない。
兵章もない。
顔の下半分を布で隠している。
一人は、先端へ鉤のついた短い槍を持っていた。
もう一人は、右手に短剣。
左手には、小さな土瓶。
土瓶の口から、細い煙が出ている。
黒松脂。
火壺。
「五束だ」
火壺を持った男が言った。
「それを置けば、女だけは歩かせる」
フードの女は答えなかった。
「聞こえなかったか」
男は、少しだけ土瓶を上げた。
「紙を置け。回収できないなら、燃やす」
老人が、斧を握り直す。
「それ以上、近づくんじゃねえ」
「爺さん」
鉤槍の男が言う。
「荷車を置いて消えろ。お前まで焼く理由はない」
「薬を積んでおりやす」
「だから何だ」
「届けなければ、困る人がおりやす」
「知らん」
火壺の男は、冷たく言った。
「御者ごと焼け。紙も、薬も、まとめてだ」
その言葉を聞いた瞬間。
考えることは、あまりなかった。
報酬は出ない。
帝国軍の巡察を待つ方がいい。
俺の膝は、完全ではない。
腰も、少し重い。
左肩も、剣を振り抜けば痛む。
港町の女将は、生きて戻れと言った。
白髭の老人は、港で気をつけろと言った。
紙箱も。
薬箱も。
俺には関係がない。
本当に。
何の得もない。
だが。
老人ごと焼くと言った。
仕方がない。
最悪だ。
俺は剣を抜いた。
──第三十四部 了




