第三十四部 名を聞く前に、助けた女の話 ① 朝の街道と、黒松林
朝。
目を覚ました時、腰はまだ少し重かった。
昨日までの痛みと比べれば、随分とましになっている。右膝も、歩き始めにわずかな違和感が残る程度で、左肩も剣を大きく振り抜かなければ問題はない。
ただし。
港町を出る前に、女将から受けた餞別のこぶは、まだ額の右側に残っていた。
指で触れる。
「痛い」
当然、誰も答えない。
昨夜泊まった宿駅の部屋は、《靴底亭》よりも狭かった。寝台は一つ。窓も小さい。水差しには、鉄の匂いが少し残っている。
だが。
静かだった。
隣の部屋から寝台の軋む音も聞こえない。
食堂の奥へ続く廊下もない。
胸元の緩い女将もいない。
非常に健全だった。
健全すぎる。
少し寂しい。
俺は寝台から起き上がり、肩を回した。腰を伸ばす。右膝へ力を掛ける。
問題ない。
少なくとも、昨日のように歩くことはできる。
机の上には、昨夜拾った紙片が置いてあった。
端が焼けている。
焦げた油布。
黒松脂の匂い。
通行。
搬送。
名前。
残っている文字は、それだけだった。
窓の外では、宿駅が朝の支度を始めている。荷車の軋み。馬の鼻息。食堂へ薪を運ぶ男の足音。遠くで、井戸の滑車が回る。
昨日の夕暮れ。
俺は黒松林へ入らなかった。
正しい判断だったと思う。
日が落ちる前に、知らない枝道へ入る。誰もいない森で、壊れた荷車と二騎の追っ手を探す。傷が治りきっていない体で。
それは、勇敢ではない。
馬鹿だ。
以前の俺なら、かなり高い確率でやった。
今は、やらなかった。
一度宿へ入り、食べ、包帯を見て、眠った。
自分で止まった。
非常に立派だ。
褒める人間はいない。
だから、自分で褒める。
「偉い」
小さく言った。
誰も答えない。
少し虚しい。
だが。
白髭の老人の荷車は、まだ宿駅へ着いていない。
それは確認する必要があった。
◇
食堂へ降りると、宿の主人が鍋をかき混ぜていた。
五十歳ほどの男だった。頭頂部の髪が少し薄く、腕は太い。夜番も兼ねているらしく、目の下には浅い隈が残っている。
「眠れたかい」
「ああ。非常に健全な宿だった」
「何だ、それは」
「褒めている」
「そうか」
主人は深く考えなかった。
大人だった。
木椀へ麦粥を入れ、黒いパンと一緒に机へ置く。
「昨日、日が落ちる前に入ってきた傭兵だな」
「ああ」
「西へ行くのか」
「そのつもりだ。その前に訊きたい」
俺は机の上へ、焦げた紙片を置いた。
主人の顔が少し変わった。
「どこで拾った」
「東へ半刻ほど戻った場所だ。本線の脇に落ちていた。左側だけ深く沈んだ轍が、黒松林へ入っている。二騎分の蹄跡もあった」
「左の車輪」
主人は、低い声で言った。
「白い髭の爺さんか」
「知っている?」
「昨日の昼前には着く予定だった。薬箱と紙箱を積んで、港を出たと聞いている。車軸を悪くしていたから、遅れるかもしれないとは思っていたが」
「港を出たのは、二日前だ」
「ああ」
主人は鍋から離れ、壁へ掛けてあった小さな地図を外した。
北東路。
宿駅。
畑。
林。
旧道。
その中で、黒松林は本線の南側へ少し膨らむように描かれていた。
「この枝道は、昔の炭焼き道だ。林の中を大きく回って、西側で本線へ戻る。だが、最近はほとんど使わない。道が荒れているし、途中に古い窯と小屋が残っているだけだ」
「傷んだ車輪で入る道ではない?」
「普通はな」
「普通ではない理由があった」
「二騎の追っ手か」
「たぶん」
主人は、焦げた紙片へ目を落とした。
「昨夜、巡察は?」
「西へ出た班が、まだ戻っていない。東の検問所へは、夜明け前に使いを出した。早くても昼になる」
「待つ?」
自分へ訊くように言った。
正しいのは、巡察を待つことだ。
俺は傭兵であって、帝国兵ではない。報酬も出ない。傷も完全には治っていない。黒松林の奥で何が起きているのかも分からない。
待つ。
食堂で麦粥を食べる。
昼まで寝る。
巡察が来たら、焦げた紙片を渡す。
それが正しい。
非常に正しい。
だが。
二日前に港を出た老人が、まだ着いていない。
薬箱。
紙箱。
左の車輪。
追っ手。
黒松脂。
紙だけを選んで燃やす火。
放っておけば、昼まで残っている保証はない。
「枝道の入口まで見てくる」
俺は言った。
「一人で?」
「危険なら戻る」
「本当に?」
「俺は最近、賢くなった」
主人は、俺の額へ視線を向けた。
「そのこぶは」
「自由の代償だ」
「戦闘か」
「違う」
「転んだ?」
「違う」
「女?」
「なぜ、この大陸の男は、そこへたどり着く」
「顔で分かる」
宿屋は怖い。
本当に。
「危ないと思ったら戻れ」
主人は言った。
「ああ」
「努力する、ではなく」
「戻る」
言い直す。
主人は頷いた。
「昼までに戻らなければ、検問所から来た兵士へ話す。黒松林の炭焼き道だと」
「頼む」
麦粥を食べる。
黒いパンも食べる。
水を飲む。
革袋を肩へ掛ける。
剣の位置を確かめる。
正しい順番だった。
たぶん。
◇
昨日拾った紙片の場所まで戻ると、朝の光が街道の端まで届いていた。
轍は、まだ残っている。
左側だけが深い。
土へ沈んだ跡の幅も、港で見た白髭の老人の荷車と近かった。
二騎分の蹄跡は、轍の後ろから続いている。
ただし。
単純に追ってきたわけではない。
一度、本線の脇へ外れている。
草が踏まれている。
片方の馬は、そこでしばらく止まったらしい。蹄跡が同じ場所へ重なっていた。
見張った。
荷車がどこへ入るか。
あるいは。
誰かと合流するか。
確かめていた。
俺は腰を落とし、地面へ触れた。
土は湿っている。
昨夜、少し雨が降った。
だが、枝道の奥には、雨のあとについた浅い蹄跡もある。
追っ手は、夜の間に一度林を出た。
朝になって、戻った。
荷車を見失い、探し直している。
それなら。
白髭の老人は、まだ生きている可能性がある。
荷車を林へ入れ、どこかで隠れた。
車輪が完全に壊れたのかもしれない。
追っ手をやり過ごそうとしたのかもしれない。
俺は黒松林へ入った。
──第三十四部 了




