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第三十三部 一人旅と、一人分の自由を持て余す話 ④ 七日目、西へ伸びる道



 七日目。

 散歩だけ。

 医師の命令どおり、港の通りをゆっくり歩く。

 女将の部屋の前は通らない。

 昼間だから。

 たぶん。

 西門の近くまで行くと、白い髭の老人が荷車を整えていた。

 左側の車輪を何度も確かめている。

 車軸。

 縄。

 積荷。

 油布で包んだ紙箱。

 薬箱。

 毛布。

「西へ?」

 声を掛けると、老人は顔を上げた。

「最初の宿駅まででさあ。車輪が少し悪うございましてな。無理はいたしません」

「左?」

「よく分かりますな」

「薬問屋で少し見た」

 老人は、白い髭を撫でた。

「明日の朝に出ます。日が落ちる前には着きたいもので」

「一人で?」

「途中までは、いつもの道でさあ。危ない道へは入りません」

「最近、火事がある」

「聞いておりやす」

 老人は荷台の紙箱を見る。

「ですが、届けなければ困る人もいる。薬も、紙も」

「紙も?」

「名が残らなければ、薬を渡したことにも、渡していないことにもできやすからな」

 ただの御者ではない。

 だが、今はそれ以上聞かなかった。

「気をつけろ」

「傭兵さんも」

「ああ」

 老人と別れ、宿へ戻る。

 夜。

 女将は、何も言わなかった。

 俺も、奥の廊下へ行かなかった。

 腰が痛い。

 非常に残念だった。



 ◇



 八日目。

 医師の許可を得て、薬問屋へ戻った。

「軽い物だけだ」

 帳簿を持った男が言う。

「分かっている」

「腰は」

「痛い」

「なぜ」

「自由の代償だ」

「女か」

「この町は、なぜすぐ分かる」

「歩き方で分かる」

 宿屋とは違うらしい。

 空箱を積む。

 縄を揃える。

 油布を畳む。

 昨日見た白髭の老人の荷車は、もうない。

 朝、西へ出たらしい。

 倉庫の隅には、黒松脂の壺が並んでいた。

 火を起こすための物。

 荷車の軸へ塗る物。

 船の防水にも使う。

 珍しい物ではない。

 だが、最近は紙箱と一緒に流れることが増えたと、薬問屋の男は言った。

「どこへ」

「西の宿駅。北方軍の補給倉。街道沿いの記録所。いろいろだ」

「誰が買う」

「帳簿には残ってる」

 男は、少しだけ顔をしかめた。

「残っているはずなんだがな。先週、記録箱ごと焼けた」

 黒松脂。

 紙箱。

 薬箱。

 記録。

 少しずつ。

 本当に少しずつ。

 同じ匂いがし始めている。



 ◇



 九日目。

 医師は、俺の膝を曲げ、肩を上げさせ、腰を押した。

「歩ける」

「本当に?」

「ただし、無茶はするな。野宿は一晩まで。戦闘は避けろ。痛みが増えたら、次の宿で休め」

「出発は」

「明日」

「今日」

「明日」

「夕方」

「明日」

「正確だな」

「患者は、自分に都合の良い答えだけ欲しがる」

 聞いたことがある。

 その日の午後。

 乾いたパン。

 干し肉。

 塩。

 予備の包帯。

 火打石。

 細縄。

 針。

 糸。

 靴底用の革片。

 安い地図。

 必要な物だけ買う。

 酒も少し。

 これは必要だ。

 非常に必要だ。

 荷物は、自分で持てる重さへ抑えた。

 女将は、革袋を見て言う。

「酒が入ってるね」

「顔で分かる?」

「瓶の形で分かる」

「宿屋は怖いな」

「出るのは明日?」

「ああ」

「腰は」

「少し痛い」

「次は、治ってから来な」

「次があるらしい」

「調子に乗るな」

 女将は笑った。

 少しだけ。

 本当に少しだけ。

 寂しそうにも見えた。

 だが、何も言わなかった。

 俺も、言わない。

 旅人には、言わない方がよいこともある。

 九日目の夜。

 荷物をまとめ終えたあと、俺は湯桶を返すため、食堂の奥へ続く細い廊下へ立っていた。

 明日の朝には港を出る。

 腰はまだ少し重い。膝も、肩も、無茶をすればすぐに痛む。だから今夜こそ、余計なことをせずに眠るべきだった。

 非常に正しい。

 正しいが。

 奥の戸が、先に少しだけ開いた。

「入らないのかい」

 女将は湯気の向こうから言った。昼間の前掛けはなく、濃い茶色の髪も下ろしている。働く女の顔ではない。だが、前の夜ほど挑発的でもなかった。

「明日は出る」

「知ってるよ」

「腰も、まだ少し痛い」

「それも知ってる」

 女将は呆れたように笑い、湯場の縁を指で叩いた。

「だから、今日は調子に乗るな。座ってな。あんたは何もしなくていい」

「何もしない?」

「腰を悪化させて、また三日延長されたくないだろ」

「それは困る」

「なら、言うことを聞きな」

 非常に正しい。

 正しい人間は、たまにずるい。

 俺は湯場へ入り、言われたとおり大人しく腰を下ろした。温かい湯が肩と背中を包み、張っていた筋肉が少しずつ緩む。

 背後へ回った女将の指が、肩へ触れた。最初は傷を確かめるように。次には、もっとゆっくりと。

「痛いかい」

「少し」

「なら、今日はここまで」

「随分と健全だな」

「旅人を壊して送り出したら、宿の評判に関わる」

「宿屋らしい」

「それだけじゃないよ」

 耳元で言われた。

 振り返ると、湯気の向こうで目が合った。

 唇が触れる。水の滴る豊満な双丘が迫り、俺は息を呑んだ。

「あんたは、何もしなくていい」

 女将はそう囁くと、俺の熱をゆっくりと飲み込んだ。

 頭の中が、一瞬で真っ白になる。湯気の向こうで交わる熱だけが、妙に鮮明だった。

 前の夜のような勢いではない。声も、水音も、ずっと静かだった。

 それでも、眠るには十分すぎるほど、長い夜になった。

 少なくとも。

 今度は、腰を悪化させずに済んだ。



 ◇



 十日目。

 朝。

 鍵を返す。

 女将は銀貨を数えた。

「延長三日分。それから食事。湯。観覧料」

「観覧料は、宿泊費へ含まれないのか」

「別だと言っただろ」

「昨夜の分は」

「どの夜だい」

 女将は、知らない顔をした。

 非常にずるい。

「また泊まる」

「生きて戻ったらね」

「ああ」

「それから」

 女将は、木匙を持ち上げる。

「街道で、余計な物を見つけても、すぐに首を突っ込むんじゃないよ」

「努力する」

「努力ではなく、守りな」

 少しだけ。

 胸へ残った。

「ああ」

 今度は、すぐに答える。

「守る」

 女将は木匙を下ろした。

「行ってきな、馬鹿傭兵」

 俺は額に残ったこぶを撫で、港町を出た。



 ◇



 西へ歩く。

 畑。

 石垣。

 井戸。

 屋根を直す男。

 洗濯物。

 子ども。

 オストマルク側の集落を抜け、午後にはグランデル帝国北東部へ入る検問所へ着いた。

 石造りの門。

 帝国の鷲。

 北方軍の印。

 制服を着た兵士。

 顔を隠す黒い外套ではない。

 正規の帝国兵。

「通行札を」

 若い兵士が言う。

 傭兵札を渡す。

「ロド・カナリ」

「ああ」

「西へ?」

「そのつもりだ」

「旧五国の外縁までは、徒歩で一週間ほど。今の足なら急ぐな」

「分かるのか」

「少し庇ってる」

 兵士は、次に俺の額を見る。

「こぶもある」

「これは関係ない」

「戦闘?」

「違う」

「転倒?」

「違う」

「女?」

「なぜ帝国兵は、そこへたどり着く」

「顔で分かる」

 宿屋と同じだった。

 世界は怖い。

 札を返される。

「最初の六日ほどは、まだ帝国領内だ。旧歩道と本線が何度か分かれるが、昔の境を探して余計な枝道へ入るな」

「ああ」

「それと、今朝、西の宿駅から照会が来た。薬箱と紙箱を積んだ荷車が一台、予定を過ぎても着いていない」

「白い髭の御者で、左の車輪を傷めた荷車か」

 兵士は、少しだけ目を細めた。

「知っているのか」

「港で見た。無理はしないと言っていた」

「なら、なおさら覚えておけ。黒松林の手前には枝道がある。轍を見つけても、日暮れに追うな。最初の宿駅へ入って、巡察へ知らせろ」

「努力する」

「……努力ではなく、宿へ入れ。傭兵は日暮れになると、急に自分を英雄だと思い始める」

「俺は現実的だ」

「額にこぶが三つある男が言うことか」

 正確だった。



 ◇



 帝国北東路を歩く。

 道は広い。

 荷車の轍。

 蹄。

 補修された石。

 帝国語の道標。

 北方軍の里程標。

 オストマルクを離れたからといって、すぐ昔の国が現れるわけではない。

 王家の印も。

 古い文字も。

 懐かしい景色も。

 まだない。

 ここは、もともと帝国の土地だ。

 この土地には、この土地の暮らしがある。

 畑。

 低い家。

 街道沿いの祠。

 補給用の井戸。

 兵士。

 商人。

 旅人。

 昔。

 俺は、この道を反対側から通った。

 馬車。

 護衛。

 従者。

 リューリック。

 そして。

 レイラ。

 あの頃は、道の長さを考えたことなどなかった。

 誰かが馬を用意する。

 誰かが宿を取る。

 誰かが食事を並べる。

 妹が眠れば、毛布を掛ける。

 俺も眠れば、誰かが毛布を掛ける。

 今は、自分の足。

 自分の荷物。

 自分の傷。

 自分の食事。

 自分の判断。

 途中で止まる。

 水を飲む。

 パンを少し食べる。

 膝。

 肩。

 脇腹。

 腰。

 問題ない。

 また歩く。

 一人で歩くために必要なのは、強さだけではない。

 誰も止めない場所で、自分で止まること。

 誰も褒めない場所で、自分で食べること。

 誰も巻き直さない場所で、自分で包帯を見ること。

 誰も拾わないかもしれない場所で、倒れないこと。

 それは、剣を振るうより難しい。

 ただし。

 誰も止めない場所では、女の胸元を見ても即座に殴られない可能性がある。

 それは、かなり大きい。

 俺は少しだけ元気になった。



 ◇



 夕暮れ前。

 最初の宿駅が見え始めた頃。

 道の端に、焦げた紙片が落ちていた。

 足を止める。

 拾い上げる。

 黒松脂。

 湿った灰。

 少しだけ焦げた油布。

 紙には、焼け残った文字がある。

 通行。

 搬送。

 名前。

 それ以上は読めない。

 足元を見る。

 轍が一つ。

 荷車。

 左側だけが深い。

 車輪を傷めている。

 その後ろには、二騎分の蹄跡。

 昨日、西へ向かった白髭の老人の荷車。

 同じものかは、まだ分からない。

 だが、左の車輪が悪いと言っていた。

 轍は、本線から外れ、黒松林へ続く細い枝道へ入っている。

 夕暮れ。

 森。

 傷の残る膝。

 まだ少し重い腰。

 知らない道。

 誰もいない。

 俺は、しばらく枝道を見た。

 少し前までの俺なら、入った。

 面倒へ首を突っ込むなと言われた直後ほど、入った。

 だが、今は日が落ちる。

 助けを求める声もない。

 馬の悲鳴も。

 火の光も。

 まだない。

 宿へ入る。

 食べる。

 包帯を見る。

 眠る。

 明るくなってから確かめる。

 それでいい。

 いや。

 それがいい。

 俺は焦げた紙片を革袋へ入れた。

 黒松林へ続く枝道を、もう一度だけ見る。

 それから本線へ戻り、最初の宿駅へ向かって歩き始めた。

 急がない。

 だが、止まらない。

 自由を持て余しながら。

 レイラへ少しずつ近づきながら。

 まだ遠い旧リュカリオンへ続く道を。

 自分で歩ける速度で。



 ──第三十三部 了


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