第三十三部 一人旅と、一人分の自由を持て余す話 ③ 夜の薬問屋と、靴底の修理
宿泊客の寝息が廊下へ漏れ始めた深夜、喉の渇きで目が覚めた。
水差しは空だった。俺は仕方なく部屋を出て、一階の食堂へ降りる。炉の火はほとんど落ち、椅子も机も暗がりへ沈んでいた。
その時。
食堂の奥にある細い廊下から、規則正しい軋みが聞こえた。
ぎい。
少し間を置いて。
ぎい。
最初は、風で古い戸が揺れているのかと思った。
だが、その音に重なるように、女の息が漏れた。
「もう……少し、静かにしな。客が起きるだろ」
「誘ったのは、そっちだろ」
「だからって、加減を知らないのかい。これだから傭兵は……」
聞き覚えがある。
女将だった。
俺は食堂の中央で足を止めた。
戻るべきだった。
水を飲み、部屋へ戻り、何も聞かなかったことにする。それが人として正しい。非常に正しい。
だが。
奥の廊下は私の部屋だから、迷い込むんじゃないよ。
昼間に言われた言葉が、妙に鮮明に戻ってきた。
迷い込むなと言われれば、どこまでが迷い道なのか確認したくなる。傭兵として、避難経路の把握は必要だ。暗い宿で火事が起きた場合、奥の廊下がどこへ続いているか知らないのは危険である。
極めて合理的な判断だった。
俺は足音を殺し、廊下へ入った。
一番奥の扉が、指一本ほど開いていた。
そこから灯りが漏れている。
軋む寝台。
荒い呼吸。
低く押し殺した声。
見てはいけない。
それは分かっていた。
だが、扉の隙間から見えた女将は、昼間の働く女とは別の顔をしていた。
まとめていた髪はほどけ、濃い茶色の髪が白い肩へ落ちている。昼間の生成り色のブラウスは寝台の端へ脱ぎ捨てられ、灯りの中へ浮かぶ胸元は、前掛け越しに眺めた時よりもはるかに豊かだった。
熱を帯びた肌。
揺れる影。
シーツを掴む指。
唇の端からこぼれる息。
相手は、二つ隣の部屋へ泊まっていた傭兵らしい。広い背中が邪魔で、細部までは見えない。
邪魔だった。
非常に邪魔だった。
俺は、もう少しだけ角度を変えようとした。
その時。
踵が、廊下に置かれていた木桶へ当たった。
からん。
乾いた音が響く。
「まずい」
俺は小さく呟いた。
男は気づかなかった。
それどころではないらしい。
だが、女将は気づいた。
寝台の上からこちらを見る。
目が合う。
昼間なら木匙が飛んできたはずだ。
ところが、女将は一瞬だけ目を丸くしたあと、追い払うどころか、唇の端を上げた。
見つかった。
完全に見つかった。
それでも。
女将は何も言わなかった。
ただ、こちらを見たまま、男の肩へ腕を回す。
声を押し殺すどころか、わざと少しだけ甘くする。
俺は、逃げた。
正確には、腰が引けた。
傭兵として戦場を走った時より速く、自分の部屋へ戻った。
◇
眠れなかった。
寝台へ仰向けになり、目を閉じても、女将の胸元が浮かぶ。
白い肩。
ほどけた髪。
こちらを見つけた時の、一瞬の驚き。
そのあとに浮かべた笑み。
あれは、何だった。
怒っていない。
少なくとも、昼間の木匙を投げる時とは違った。
見せつけた。
そう考えると、下半身へ熱が集まる。
「まずいな」
小さく呟いた。
誰も答えない。
リューリックがいれば、たぶん扉の外から言った。
殿下。明日は診療所でございます。お休みください。
今はいない。
自由だ。
だが、自由には睡眠不足という代償もある。
俺は寝返りを打った。
右膝が少し痛む。
左肩も張る。
それでも、女将の声が頭から離れない。
最後に。
少しだけレイラのことを思い出した。
妹が今どこにいるかも分からないのに、俺は何をしている。
自分でも思う。
だが、ずっと妹のことだけを考えていれば、息が詰まる。
あいつへ追いつくためにも、俺はまず生きる。
眠る。
治す。
そして。
できれば、少しくらい良い思いもする。
それくらいは、許される。
たぶん。
明け方近くまで、俺は眠れなかった。
◇
五日目。
鏡を見ると、目の下が黒かった。
鉱山で一日働いた坑夫のような顔だった。
食堂へ降りる。
女将は、何事もなかったように大鍋をかき混ぜていた。
俺を見る。
目が合う。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、昨夜を思い出したように目を細める。
それから、何も知らない顔で言った。
「おや。寝不足かい、傭兵さん」
「少しな」
「隣の部屋が騒がしかった?」
「宿屋には、いろいろある」
「そうだね。長くやってると、いろいろあるよ」
女将は椀へ煮込みをよそい、俺の前へ置いた。
いつもより肉が少し多い。
偶然かもしれない。
たぶん。
「二つ隣の男は、今日で出立するらしいよ」
女将は、何でもないことのように言った。
「そうか」
「今夜は、少し静かになるね」
大鍋の湯気越しに、女将がこちらを見る。
生成り色のブラウス。
紺色の前掛け。
昼間の働く女の姿。
だが、昨日より襟元が少しだけ緩く見えた。
俺は見た。
一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
「今日は長いね」
「寝不足で判断力が落ちている」
「診療所で診てもらいな」
「そうする」
木匙は飛んでこなかった。
それが、余計にまずかった。
◇
町医者は、俺の膝を曲げ、肩を上げさせ、脇腹を押した。
「睡眠は」
「少し足りない」
「なぜ」
「宿の壁が薄い」
「酒か」
「違う」
「女か」
少し黙る。
「まだ違う」
医師は、顔を上げた。
「まだ?」
「細かいことだ」
「細かくない気がするが、聞かん。西門まで歩いて戻れ。帰ってから腫れが増えなければ、明日から夜警くらいは構わん」
「出発は」
「明後日以降」
「明日」
「明後日以降」
「夕方なら」
「明後日以降」
「正確だな」
「患者は、自分に都合の良い答えだけ欲しがる」
「覚えておく」
修理した靴を履き、西門へ向かう。
靴底が厚い。
少し歩きにくい。
だが、石を踏んだ時の感触は柔らかい。
門の脇には、街道案内の板が立っている。
西。
帝国北東路。
その先で、西北西。
旧北路。
門番の若い帝国兵が、俺へ声を掛けた。
「旧北路へ行くのか」
「ああ。今日は歩行確認だけだ」
「珍しいな」
「何が」
「傭兵が、自分から休むのが」
「最近、賢くなった」
若い兵士は、俺の額へ視線を向けた。
「そのこぶは」
「自由の代償だ」
「戦闘?」
「違う」
「転倒?」
「違う」
「女?」
少し黙る。
「正確だ」
兵士は笑った。
「旧五国の外縁までは、今の足なら一週間で考えろ。最初の六日ほどは帝国領だ。昔の境を探して、余計な枝道へ入るな」
「昔の境は、まだ先か」
「まだ遠い」
「ああ」
頭では分かっている。
昔の文字も。
古い印も。
懐かしい景色も。
まだ出ない。
今は、この土地を歩く。
「それから、火事がある」
若い兵士が言った。
「街道沿いの倉庫が二つ焼けた。薬箱と、通行記録。金も武器も残っていた」
「変な盗賊だな」
「盗賊とは限らない」
「断定しない?」
「見ていないからな」
若い兵士は槍を持ち直した。
「余計なことへ首を突っ込むな。西へ向かうなら、自分の足を守れ」
「努力する」
「傭兵は、努力すると言った時ほど守らない」
「よく知っているな」
「何人も見た」
「俺は少し違う」
「額にこぶが二つある男が言うことか」
正確だった。
◇
宿へ戻ると、女将は夕食の皿を片づけていた。
客が減り、食堂は少し静かだった。
二つ隣の傭兵は、もういない。
俺は部屋へ戻る前に、水差しを満たす。
女将は、こちらを見ないまま言った。
「湯桶は、あとで奥へ返しに来な」
「食堂ではなく?」
「奥へ」
短い言葉だった。
だが、十分だった。
俺は部屋へ戻った。
横になる。
寝る。
眠るべきだ。
明後日には、街道へ出る。
レイラを追う。
紙だけを燃やす火も気になる。
西へ向かわなければならない。
そう考えながら。
亥の刻を少し過ぎた頃。
俺は湯桶を持ち、食堂の奥にある細い廊下へ立っていた。
「女将」
小さく呼ぶ。
扉の向こうへ届く程度の声で。
「来たかい。入りな」
扉を開ける。
女将は、寝台の端へ腰を下ろしていた。
濃い茶色の髪は、昼間のようにまとめていない。生成り色のブラウスは胸元を緩くはだけ、寝台脇の灯りが肌へ柔らかな影を落としていた。
働く女。
昼間は鍋を持ち、銀貨を確かめ、木匙を投げる女。
夜は、別の顔をする。
「思ったより遅かったじゃないか」
女将が言う。
「意外と意気地がないね」
「うるさい。昨日のせいで眠れなかった」
「覗いたのは、あんただろ」
「扉が開いていた」
「ほんの少しね」
「わざとか」
女将は、少しだけ笑った。
「さてね」
俺は湯桶を床へ置く。
「二晩続けて眠れないと、出発へ響く」
「だから?」
「責任を取ってもらう」
「随分と都合の良い理屈だね」
「傭兵だからな」
「高くつくよ」
「金はない」
「なら、体で払いな」
女将は立ち上がり、俺の外套の襟へ手を掛けた。
「昼間は、あれだけ好き勝手に見たんだ。今夜は、見ているだけでは済まさないよ」
引かれる。
柔らかな胸元へ、顔が触れる。
昼間に三秒ずつ盗み見たものが、すぐ目の前にある。
「これは、かなり高い観覧料だな」
「まだ観覧料のつもりかい」
「別料金は取るなよ」
「満足させたら考える」
唇が重なる。
女将の腕が背中へ回る。
古い寝台が軋む。
昼間に痛めた肩も、脇腹も、膝も。
その瞬間だけは。
かなりどうでもよくなった。
俺は、これまで溜め込んでいた鬱憤を、夜の宿へ残らず吐き出した。
◇
六日目。
診療所の老人は、俺の腰へ触れたあと、深いため息をついた。
「お前は、昨日、何をした」
「軽い運動」
「肩。脇腹。膝。それから腰。全部、悪化している」
「軽くはなかったかもしれない」
「三日延長だ」
「三日?」
「今日一日は、寝台から出るな。明日も散歩だけ。明後日にもう一度診る。出立は、そのあとだ」
「待て。昨日までは順調だった」
「だから、何をした」
「宿の壁が薄かった」
「意味が分からん」
「俺にも、少し分からない」
「分からないまま腰を痛めるな、馬鹿者」
正しい。
非常に正しい。
俺は今まで順調に回復していた肩、脇腹、膝に加え、新たに腰の痛みまで抱えながら、《靴底亭》へ戻った。
階段が、遠い。
一段ごとに腰へ響く。
女将は帳場からこちらを見ると、最初は笑った。
だが、俺の歩き方を見て、少しだけ顔を引き締めた。
「三日、延びた」
「……悪かったね」
「反省している?」
「少しは」
「俺は、していない」
「馬鹿だね」
「ああ」
女将は呆れながら、俺の腕を取った。
「部屋まで送るよ」
「優しいな」
「階段で転ばれて、床へ穴を開けられたら困る」
「宿屋らしい」
「それから」
「何だ」
「次は、治ってからにしな」
俺は少し考えた。
「次がある?」
女将は、何も答えなかった。
ただ、支えていた腕を少しだけ強く引いた。
腰へ響いた。
「痛い」
「今後の分だよ」
◇
六日目は、ほとんど寝台で過ごした。
昼過ぎ。
女将が、豆と肉を柔らかく煮たスープを部屋へ持ってきた。
「食べな」
「特別扱い?」
「自業自得で寝込んだ馬鹿を、食堂まで降ろしたくないだけだよ」
「優しいな」
「褒めても観覧料は返さない」
女将は椅子へ腰を下ろし、俺が食べるのを見ていた。
昼間の顔だった。
前掛け。
まとめた髪。
働く女の手。
昨夜とは違う。
だが、違わない。
「旅人とは、よくあるのか」
訊くと、女将は少しだけ眉を上げた。
「何がだい」
「昨夜みたいなこと」
「宿屋を長くやってれば、いろいろあるよ」
「誰でも?」
「誰でもではない」
「俺は選ばれた?」
「調子に乗るな」
木匙は持っていない。
安全だった。
たぶん。
女将は少しだけ笑う。
「旅人は来る。泊まる。出ていく。帰ってくる奴もいるし、二度と戻らない奴もいる。一晩くらい、楽しい夜があってもいいだろ」
「ああ」
「でも、あんたは西へ行くんだろ」
「行く」
「なら、治しな。楽しいことをするにも、歩くにも、まず体が要る」
非常に正しい。
昨夜、その正しさを教えてほしかった。
「昨夜は」
「あたしも、少し浮かれた」
女将は、あっさり言った。
それでよかった。
重くない。
軽すぎもしない。
宿の一夜。
旅人の夜。
それだけだ。
「また来る?」
女将が訊いた。
「生きて戻れれば」
「なら、戻りな」
「ああ」
答える。
「次は、腰を痛めない程度に」
木匙が飛んできた。
額へ当たる。
「痛い」
「台所から持ってきておいて良かったよ」




