第三十三部 一人旅と、一人分の自由を持て余す話 ② 一人分の暮らしと、木匙の女将
部屋には、寝台が一つあった。
窓。椅子。水差し。洗面器。棚。荷物を置くための低い台。
一人なら足りる。
そのはずなのに、妙に広く見えた。
リューリックがいれば、最初に窓を開ける。
次に、鍵。
廊下。
階段。
裏口。
逃げ道。
寝台の脚。
それから、俺の革袋を勝手に軽くする。
自分の部屋でもないのに、宿の危険箇所を数え、俺が余計な酒を隠していないかまで確認する。
面倒な男だった。
非常に面倒で。
非常にありがたかった。
俺は窓を開けた。
港の屋根。
灰色の海。
遠くの船。
《白翼》は建物の陰に隠れ、もう見えない。
鍵を確かめる。
廊下。
階段。
裏口。
逃げ道は二つ。
それから外套を脱ぎ、寝台へ腰を下ろした。
右膝の包帯を外す。
少し腫れている。
左肩。
動く。
だが、剣を振り抜けば響く。
脇腹。
傷口は塞がっている。
深く息を吸う。
「痛い」
誰もいない。
返事もない。
少しだけ変な感じがした。
今までは、痛いと言えば誰かがいた。
呆れる。
怒る。
包帯を巻き直す。
寝台へ押し戻す。
今は、自分でやるしかない。
革袋を開く。
薬草袋。
止血粉。
包帯。
白い布。
空の硝子管。
誰かから渡された物が、机の上へ少しずつ並ぶ。
俺は薬草を湯へ浸し、布へ含ませ、膝へ当てた。
包帯を巻く。
一度目。
きつい。
二度目。
緩い。
三度目。
少しだけまし。
「面倒だな」
誰も答えない。
だが、途中で適当に終えるわけにもいかない。
一人で歩くということは、誰にも止められないことではない。
誰も止めない場所で、自分で止まることだ。
少しだけ。
本当に少しだけ。
リューリックが言いそうな言葉だった。
腹が立つ。
あいつがいないのに、あいつの言葉だけが残っている。
俺は寝台へ横になった。
窓の外では、海鳥が鳴いている。
目を閉じると。
最初に浮かんだのは、胸元の緩い女将だった。
生成り色の布。
汗で少し張りついた襟元。
谷間へ落ちる影。
確認時間は三秒。
一瞬、下半身が熱くなるのを感じた。
「五日も泊まる。なら、何か一つくらい良いことがあるかもしれない。……あるかもしれない」
俺は少しだけ口元を緩め、次に会った時は二秒半で記憶へ焼きつける必要があると、静かに心へ誓った。
それから。
少し遅れて、リューリックの顔が浮かんだ。
呆れた目。
殿下、と呼ぶ声。
そういうところで学習能力を発揮される必要はございません。
たぶん、そう言う。
最後に。
レイラが浮かんだ。
子どもの頃。
雪の日。
手袋を片方なくし、泣きそうな顔で俺を睨んでいた妹。
兄さまが持っていると思った。
知らない。
嘘。
知らない。
兄さまは、嘘をつく時だけ少し早口になる。
結局、手袋は俺の外套の内側から出てきた。
なぜ入っていたのかは覚えていない。
たぶん。
少しだけからかうつもりだった。
レイラは怒った。
だが、その日の夜には、俺の隣で眠った。
今は、どこにいる。
アルストラで痕跡を見つけた。
生きている可能性はある。
それでも、追いつけなかった。
北西へ抜けたのか。
フィヨルド諸島へ渡ったのか。
旧五国側へ入ったのか。
分からない。
すぐに追いたい。
だが、今の足で街道へ出れば、数日後には倒れる。
倒れれば、妹へ近づくどころか、遠ざかる。
「待ってろ」
小さく言った。
返事はない。
それでも。
言っておきたかった。
「今度は、ちゃんと追いつく」
胸の奥が少しだけ重くなる。
重くなりすぎる前に、俺は女将の胸元を思い出した。
人間は、ずっと真面目ではいられない。
特に俺は。
そのまま眠った。
◇
一日目と二日目は、ほとんど寝た。
食べる。
包帯を替える。
湯へ浸かる。
眠る。
起きる。
また食べる。
初日の夜。
食堂で豆と塩漬け肉の煮込みを頼んだ。
「一つ?」
女将が訊く。
「ああ」
答えたあとで、少しだけ間が空いた。
リューリックがいれば、同じものをもう一つ頼んでいた。
あいつは食事へ文句を言わない。ただ、俺が自分の分だけ頼めば、静かにこちらを見る。
傷を治すには、食事が必要でございます。
たぶん。
そう言う。
「二つにするかい」
女将が訊いた。
「なぜ」
「あんた、今、二つ目を頼む顔をしてたよ」
「顔で注文が分かるのか」
「宿屋を長くやってるとね」
「一つでいい」
連れはいない。
二つ頼んでも仕方がない。
そう思った。
だが、食べ終えると少し足りなかった。
炉の近くで、女将がこちらを見る。
目が合う。
「もう一つ」
「連れが来たのかい」
「俺が食べる」
「最初から頼みな」
「一人分の適量が、まだ分からない」
女将は少しだけ笑い、大鍋へ戻った。
椀を受け取る時、女将は俺の額にできたこぶを指先で軽く弾いた。
「五日もいるなら、夜はきちんと眠りな。昼と違って、宿の奥は少し騒がしい時もあるからね」
「騒がしい?」
「泊まっていれば、そのうち分かるよ」
女将は、それ以上説明しなかった。ただ、大鍋へ戻る背中が少しだけ楽しそうに見えた。
食事の量。
荷物の重さ。
休む時間。
歩く速度。
今まで、誰かが勝手に調整していた。
それを、自分で決める。
面倒だ。
だが。
悪くない。
翌朝。
食堂へ降りると、若い女給が机を拭いていた。
二十代半ばほど。
明るい金髪。
白い布を頭へ巻き、袖を肘まで上げている。
昨日は見なかった顔だ。
女給は、机の奥へ手を伸ばすために身を屈めた。
柔らかな胸が、薄い布越しに前へ押し出される。
首元から覗く白い肌。
前掛けの紐で寄せられた胸の形。
谷間の奥へ落ちる影。
俺は考えなかった。
考える前に見た。
正確には。
一度見たあと、もう一度見た。
確認には反復が必要だ。
「四秒」
女将の声がした。
木匙が飛ぶ。
額へ当たる。
「痛い」
「昨日より長い」
「正確な状況把握には時間が必要だ」
「観覧料、二枚」
「値上がりした?」
「常習だからね」
女給が吹き出した。
笑いながら、少しだけ胸元を押さえる。
「本当に見るんですね」
「事故だ」
「二回見ましたよね」
「二次被害の確認」
木匙がもう一本飛んだ。
「二本あるのか」
「台所だからね」
自由には、累進課税があるらしい。
◇
二日目の夜。
湯へ浸かったあと、部屋の窓辺へ椅子を置いた。
酒はまだ飲めない。
仕方がないので、水を飲む。
窓の外には港の灯り。
海。
船。
遠くの酒場から、女の笑い声が聞こえる。
行きたい。
かなり行きたい。
誰も止めない。
行ってもいい。
だが。
明日の朝、傷が悪化していれば、医師に止められる。
西へ行けない。
妹へ近づけない。
俺は水筒を置き、寝台へ横になった。
少しだけ悔しい。
自由とは。
好き勝手にすることではない。
好き勝手にしたい自分を、必要な時だけ止めることだ。
ただし。
必要ではない時は、かなり好き勝手にしていい。
明日、女給がまた机を拭く時間を確認しておく必要がある。
非常に重要だった。
◇
三日目。
診療所で傷を見せた。
町医者は膝を曲げ、肩を動かし、脇腹を押した。
「散歩は構わん。長く歩くな。痛みが増えたら戻れ」
「仕事は」
「明日から軽いものだけ」
「今日からでは」
「散歩だけだ」
「散歩へ報酬が出る仕事は」
「知らん」
診療所を出たあと、港をゆっくり歩いた。
魚市場。
倉庫。
縄。
帆布。
油布。
薬草。
干し網。
帝国語。
オストマルクの古い言葉。
商人の訛り。
水夫の怒鳴り声。
大通りの角では、洗濯屋の女たちが濡れた布を籠へ積んでいた。袖をまくり、重い籠を持ち上げるたび、汗で湿った薄い服が背中と胸へ張りつく。
良い。
非常に良い。
港町には、海以外にも見るべきものが多い。
俺は少しだけ歩幅を落とした。
洗濯屋の女が、こちらを見る。
「何か用?」
「道を見ていた」
「道は反対側だけど」
「視野が広い」
女は笑った。
「観覧料を取るよ」
「この港には制度があるのか」
「宿屋の女将から聞いた」
情報が早い。
非常に危険な町だった。
俺は咳払いをし、西門へ向かった。
港の西側には、低い石壁と古い木の門がある。
門の向こうにも、すぐ旧リュカリオンがあるわけではない。
オストマルク側の畑。
集落。
その先に帝国北東部。
さらに徒歩で一週間ほどは掛かるはずだ。
それでようやく、旧五国連合の外縁。
地図へ書けば短い。
歩けば長い。
そこに暮らす人間にとっては、もっと長い。
昔。
俺は、この街道を反対側から通ったことがある。
馬車だった。
西から東へ。
リュカリオン方面から帝国領を抜け、オストマルクへ向かった。
何のためだったのか、細かいことは覚えていない。
公式の使節。
父の代理。
あるいは、父と一緒だったかもしれない。
覚えているのは。
長い道。
低い丘。
冷たい風。
馬車の窓。
勝手に渡された毛布。
リューリック。
そして、隣で眠っていたレイラ。
妹は、馬車が揺れるたびに俺の肩へ頭をぶつけた。
起きる。
怒る。
また眠る。
最後には、俺の外套の端を掴んだまま眠った。
今は、どこにいる。
俺は西門の向こうを見た。
今日ではない。
まだ今日ではない。
急いで出ても、追いつけない。
まず治す。
歩けるようになる。
それから進む。
焦るな。
自分へ言い聞かせる。
少し腹が立つ。
だが。
間違ってはいない。
◇
角の靴修理屋へ寄った。
年嵩の職人は、俺の靴底を見ると、すぐに首を振った。
「旧北路へ入るなら、張り替えだ」
「まだ行き先を言っていない」
「この港で、靴底を直す傭兵が行く場所はだいたい同じだ」
「顔で分かる?」
「靴で分かる」
宿屋とは違うらしい。
「明日の夕方まで掛かる」
「急げる?」
「急がせるなら、古い革を貼る。待てるなら、新しい革を使う」
少し前までの俺なら、急がせた。
早く西へ。
妹の痕跡。
海へ流れた名前。
旧五国の外縁。
だが。
古い革で街道へ入り、途中で靴底が剥がれれば面倒だ。
俺は面倒を嫌う。
非常に嫌う。
面倒を避けるために待つなら、それは立派な判断である。
「新しい革で頼む」
「珍しいな」
「何が」
「傭兵が待つのが」
「俺は賢い傭兵だ」
「額にこぶが二つある」
「自由の代償だ」
「そうか」
職人は、それ以上訊かなかった。
◇
四日目。
女将の紹介で、港の薬問屋へ行った。
倉庫の中には、乾燥させた薬草の匂いが満ちている。棚。木箱。麻袋。縄。油布。荷車。帳簿。
帳簿を持った男は、俺の肩と膝を見る。
「女将から聞いた。重い塩袋は持つな。薬草束と空箱だけ。縄は長さを揃え、十本ずつまとめろ。剣は抜くな」
「倉庫で?」
「傭兵は、剣を抜く理由を探す」
「偏見だ」
「昨日、港の広場で素振りをしようとして医者に怒鳴られた男がいる」
「誰だ」
「お前だ」
見られていた。
港は怖い。
薬草束を一つ持つ。
軽い。
以前なら二つ。
いや。
三つ持った。
早く終わらせる。
余った時間に酒を飲む。
女給を見る。
できれば観覧料を払わずに見る。
極めて合理的だ。
だが、三つ持って傷を開けば、仕事が増える。
面倒だ。
俺は一つずつ運んだ。
縄を揃える。
油布を折る。
空箱を積む。
荷車の車輪へ泥が詰まっていれば、棒で落とす。
片側だけ深く沈んだ荷車は、軸が歪みやすい。荒れた道へ無理に入れば、轍の幅も揃わない。
御者は何度も車輪を確かめる。
縄を締め直す。
荷を少し動かす。
街道を進むには、剣以外にも必要なものが多い。
昼前。
グランデル帝国北方軍の荷車が三台入ってきた。
護衛の兵士。
御者。
薬箱。
毛布。
乾いたパン。
工具。
車輪。
縄。
紙箱。
武器だけではない。
俺の祖国を滅ぼした国。
父を処刑した国。
俺を奴隷として使った国。
その国の兵士が、今は薬と毛布を運んでいる。
簡単ではない。
簡単に憎めれば、もう少し楽だったのかもしれない。
だが、簡単に許せるわけでもない。
荷車の最後尾には、負傷した兵士が一人乗っていた。
肩へ包帯。
青い顔。
痛みを我慢している。
敵国の兵士。
だが、今はただの負傷者でもある。
少し前に、誰かが言った。
腹の中に、国旗はありません。
俺は薬草束を抱えたまま荷車を見送った。
額には、女将の木匙でできたこぶが二つ残っていた。
政治と色欲は、同じ男の中で共存する。
かなり自然に。
──第三十三部 了




