第三十三部 一人旅と、一人分の自由を持て余す話 ① 港町と、五泊の宿
一人で歩くことと、一人で生きることは、同じではない。
そして、一人で生きることと、誰にも止められず好き勝手に振る舞うことも、たぶん同じではない。
俺はその違いを、オストマルク沿岸の小港へ降り立った初日に学んだ。
◇
朝の港には、夜の名残がまだ薄く漂っていた。
北から吹きつける風が海面を細かく砕き、岸壁へつながれた船の腹を一定の間隔で叩いている。魚市場では氷の上へ銀色の魚が並び、水夫たちは濡れた綱を肩へ掛け、荷運びの男たちは樽と木箱の間を怒鳴りながら行き来していた。
海鳥の鳴き声。
波が砕ける音。
塩水と魚油の匂い。
久しぶりの陸だった。
少し前まで、俺は《白翼》の船室で寝台へ固定され、桶へ敗北し、甲板へ出ただけで褒められていた。最後には、リヴィアたちへ本来の名前も告げた。
ロド・カナリではない。
レオン。
隠し続けてきた名前ではない。
傭兵として街道を歩いていた頃から、必要な場面では何度も使ってきた。だが、帝国内の病院へ入り、シーロへ向かう船へ乗り、便宜上の名としてロド・カナリを重ねるうちに、少しだけ言い直す必要が生まれていた。
俺は、レオンだ。
元王子。
現傭兵。
二十八歳。
職業は、わりと頻繁に死にかけること。
趣味は、美人に惚れること。
特技は、惚れた直後に殴られること。
◇
自分の荷物は、自分で持つ。
宿は、自分で探す。
食事も、自分で頼む。
傷が痛ければ、自分で判断する。
何より。
誰もいない。
振り返れば、《白翼》の帆柱が見えた。リヴィアは船員たちへ指示を飛ばし、マリノは医療箱を積み替えている。テオは少し離れた岸壁で商人たちと話し込み、帳簿を覗き込んでいた。
全員、それぞれの仕事へ戻っている。
俺の隣には、誰もいない。
リューリックはいない。
俺が荷物を詰めすぎれば、何も言わず半分を抜き取る家令はいない。宿へ入れば、最初に窓と裏口と寝台の下を確かめ、俺が酒を頼むより先に湯と食事の時間を聞く男もいない。
町医者の娘もいない。
軍医もいない。
船医もいない。
俺が少しだけ調子へ乗った時、視線の向きを即座に見抜く女もいない。
つまり。
「自由だ」
口に出してみると、思った以上に良い響きだった。
元王子として生きていた頃は、どこへ行っても従者や護衛がいた。帝国の強制労働所にいた三年間だけは別だが、あそこでは自由という言葉そのものが遠かった。
救い出されたあとは、リューリックがいた。
傭兵になってからも、基本的には二人だった。
あいつは家令の顔をしたまま、俺の生存率を勝手に上げ続けた。
ありがたい。
非常にありがたい。
だが。
誰にも止められない朝というものは、想像していたよりも胸が躍る。
酒を飲んでもいい。
昼まで寝てもいい。
食事を余分に頼んでもいい。
宿代が安ければ、多少部屋が狭くても構わない。
女将が美人なら、さらに良い。
胸元が少し緩ければ、最高だ。
俺は極めて現実的な条件を頭の中へ並べ、港の通りへ向かって歩き始めた。
十歩ほど進んだところで、右膝が少しだけ熱を持った。
足を止める。
痛みは強くない。
だが、消えてもいない。
左肩も、剣を大きく振ればまだ響く。脇腹の傷は塞がっているものの、深く息を吸えば筋肉の奥に鈍い張りが残った。
以前の俺なら、そのまま歩いた。
歩けるのだから歩いた。
痛みが増えれば、その時に考えた。
倒れれば、誰かが拾う。
誰かが怒る。
誰かが縫う。
誰かが寝台へ戻す。
そうやって、俺は生き延びてきた。
だが、一人旅では事情が違う。
街道の途中で倒れれば、拾う人間がいないかもしれない。野盗に遭遇した時、剣を抜く前に膝が崩れれば、財布も靴も身ぐるみ剥がされる。運が悪ければ、そこで終わる。
美人の胸元へ一秒でも長く視線を置くためには、まず生き延びる必要がある。
非常に大切な順番だった。
俺は西門へ向かう道から外れ、宿屋が並ぶ通りへ入った。
◇
港の大通りから一本外れた場所に、二階建ての宿があった。
潮風で少し灰色へ変わった白い漆喰の壁。入口には、青い魚と茶色い靴を描いた看板が下がっている。
魚なのか。
靴なのか。
どちらかに統一した方がよい。
扉を開けると、食堂では朝の片づけが続いていた。木の机。背もたれのない椅子。大鍋。炉。梁から吊るされた干し魚。焼いた黒パンの匂い。
帳場の奥には、三十代半ばほどの女将がいた。
濃い茶色の髪を無造作にまとめ、生成り色のブラウスの上から濃い紺色の前掛けを巻いている。腕は細くない。樽や鍋を日常的に扱う女の腕だった。
働く女は良い。
飾るためではなく、毎日使っている体には、妙な説得力がある。
女将は、布巾を絞りながら俺を見た。
顔。
外套。
革袋。
靴。
右膝。
左肩。
最後に、もう一度顔。
旅人を見慣れている。
「泊まりかい」
「ああ。食事つきの部屋があるなら借りたい」
「一泊?」
「ああ、一泊だ。いや……」
俺は答える前に、右膝へ意識を向けた。
痛い。
歩ける。
だが、街道へ出るには不十分。
「五泊で頼む」
女将は布巾を持ったまま、少しだけ眉を上げた。
「ずいぶん増えたね。扉を開けた時には、今日中に西門を抜ける顔をしていたよ」
「人は成長する」
「扉を開けてから、まだ半刻も経っていない」
「成長が速い」
「そういうことにしておこうか」
女将は帳場の下へ手を伸ばした。
鍵束を取るため、少し身を屈める。
生成り色のブラウスの首元が、前へ緩んだ。
見えた。
白い布の隙間。
柔らかな膨らみ。
汗を吸った薄手の布が胸の形を拾い、その間に落ちる影まで、朝の光が妙に丁寧に描いている。
俺は極めて冷静に考えた。
事故だ。
完全に事故である。
事故が起きた時、傭兵として最初にすべきことは、被害状況を正確に確認することだ。
見ない方が不誠実ではないか。
一秒。
必要な確認。
二秒。
念のための再確認。
三秒。
今後の安全管理に必要な記憶の定着。
女将が顔を上げた。
目が合った。
「今、見たね」
「何を」
「三秒」
「数えていたのか」
「宿屋を長くやってると、男の目がどこへ行くかくらい分かるよ」
「誤解だ」
「どの辺が」
「安全確認だ」
「何の安全を確認したんだい」
非常に難しい質問だった。
女将は、手に持っていた濡れた布巾を投げた。
顔面へ当たる。
冷たい。
「観覧料、小銅貨一枚」
「宿泊客から取るのか」
「見た客から取る」
「三秒で一枚?」
「四秒目から値上がりする」
「良心的だな」
「褒めても安くならないよ」
俺は布巾を顔から外した。
自由には、思っていたより早く代金が発生した。
◇
女将は俺へ鍵を渡さなかった。
「その前に診療所へ行きな」
「部屋を先に見たい」
「医者に何日休めと言われるか聞いてからだ。床へ血を垂らされたら、掃除するのは私だからね」
「血は出ていない」
「怪我人は、血が出ていなければ全部大丈夫だと思ってる」
「傭兵だけでは」
「特に傭兵だよ」
女将は俺の右膝を指した。
「歩く時、少し庇ってる。左肩も上げきれていない。ここから西へ行くなら、最初の宿駅まで半日以上。途中で倒れたら、誰が拾うんだい」
誰もいない。
その答えが胸の中へ戻ってきた。
「医者は、通りを戻って三軒目。薬草を干してるから、見れば分かる」
「美人?」
「爺さんだよ」
「残念だ」
「治療へ行くんだろう」
「医療にも希望は必要だ」
「早く行きな」
木匙を持ち上げられた。
今度は飛んでくる前に、俺は扉へ向かった。
◇
港の診療所は、宿より小さかった。
入口には乾燥させた薬草が束で吊るされ、室内には煮沸した布と軟膏の匂いが残っている。診察台の奥にいたのは、女将の言葉どおり白髪の老人だった。
船医ではない。
軍医でもない。
港で働く人間の怪我を、長年診てきた町医者。
「座れ」
老人は挨拶より先に言った。
「随分と丁寧な言い回しだな」
「港で診る傭兵は、だいたい言うことを聞かん。丁寧に話す時間が惜しい」
正しい。
非常に失礼だが、正しい。
医師は俺の右膝を曲げ、伸ばし、左肩を上げさせ、脇腹を押した。
「痛むか」
「膝は長く歩くと痛い。肩は剣を大きく振ると痛い。脇腹は深く息を吸うと少し張る」
医師は、一度だけ俺の顔を見た。
「妙に正直だな」
「最近、誤魔化すと面倒なことになると学んだ」
「誰に」
「各方面から」
「女か」
「ほぼ」
「そうか」
老人はそれ以上訊かなかった。
大人だった。
「五日は休め」
「長い」
「最低で五日だ。最初の二日は寝ろ。三日目から短い散歩。四日目以降、軽い仕事なら構わん。剣は振るな。荷物を持ちすぎるな。熱が出たら戻れ」
「三日では」
「駄目だ」
「四日」
「駄目だ」
「四日半」
「市場の値切りではない」
「半日でも早く出たい」
「急いで街道へ入り、野盗に襲われて荷物を奪われ、膝を悪化させて戻ってくる方が時間を使う」
「戻れれば」
医師は、少しだけ顔を上げた。
「分かっているなら休め」
包帯が、少し強く締まる。
「痛い」
「分からせるためだ」
「医者が患者へ痛みを与えていいのか」
「言うことを聞かない傭兵には、少しくらい構わん」
この大陸では、医療者の権限が強すぎる。
◇
《靴底亭》へ戻ると、女将は帳場の奥から顔を上げた。
「何日」
「五日」
「本当にそんなに休むのかい?」
「休む」
「西門へ行かない?」
「行かない」
「剣を振らない?」
「振らない」
「女の胸元を見ない?」
俺は少し考えた。
女将の右手が、木匙へ伸びる。
「見える位置へあれば、反射で一度は見るかもしれない。だが、三秒以内に目を逸らす」
木匙が飛んできた。
額へ当たる。
「痛い」
「今後の分だよ」
「まだ見ていない」
「その答えで十分だ」
宿代は五泊で小銀貨十枚。
食事つき。
湯は別料金。
観覧料は別。
理不尽だった。
ただし、女将が身を屈めるたびに胸元へ視線を吸われる可能性を考えれば、先払いとしては安いのかもしれない。
俺は額を押さえながら銀貨を出した。
女将は一枚ずつ指で確かめる。
「この銀貨は軽い」
「銀貨に軽いも重いもあるのか」
「縁が削れてる。最近、増えたんだよ」
「半分?」
「そこまでは減ってない。ただ、一枚としては受け取れない」
「では、三分の二」
「宿代は市場の競りじゃない」
「少し譲ってくれ」
「客が譲りな」
別の銀貨を出す。
女将は箱へ入れたあと、少しだけ声を落とした。
「銀だけじゃない。最近は、妙な紙も増えてる」
「紙?」
「街道沿いの倉庫が二つ焼けた。薬箱と、通行記録を置いていた倉庫。金も武器も残っていたらしい」
「変な盗賊だな」
「盗賊ならね」
女将は鍵を渡した。
「西へ行くなら、覚えておきな。金を取らず、紙だけ燃やす人間がいる」
「ああ」
鍵を受け取る。
「二階の端。海と反対側。階段を上がって右」
「湯は」
「夜、食堂を片づけてから取りに来な。奥の廊下は私の部屋だから、迷い込むんじゃないよ」
「酒は」
「傷が落ち着いてから、好きに飲みな」
「観覧料は」
「次は高くつくよ、バカタレ!」
女将はそう言いながら、こちらの顔を値踏みするように見た。叱っているはずなのに、口元には男の扱いに慣れた女の余裕が残っている。
木匙が飛んできた。
今度は避けた。
少しだけ成長した、のか?
──第三十三部 了




