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第三十二部 ロド・カナリを、港に置いていく話 Another Side:リヴィア・サレーネ

《白翼》が港を離れた後、リヴィアはしばらく甲板から動かなかった。


 オストマルクの小港は、少しずつ遠ざかっていく。


 桟橋に立つ男の姿も、やがて点になった。


 ロド・カナリ。


 船団記録には、そう残す。


 負傷傭兵。


 便宜上の名。


 サレーネ船団の臨時同行者。


 北東島領アルストラでの調査協力者。


 それでよい。


 紙には、それでよい。


 けれど。


 リヴィアは、胸の奥で別の名を呼んだ。


 レオン。


 私の記録には、そう残す。


 誰にも見せない記録。


 船団長にも、港湾係にも、ガスパルにも、テオ殿にも、マリノにも見せない記録。


 命を拾った男。


 秘密を落とした男。


 桶に負けた男。


 腰帯を掴んだ男。


 妹を追わずに、妹を守ろうとした男。


 そして、本物を見分けようとしている男。


 海の上では、名は軽くない。


 名を間違えれば、船が違う港に着く。


 名を偽れば、荷が別の手に渡る。


 名を奪えば、人は紙の上で死ぬ。


 だから、リヴィアは名を雑に扱う者が嫌いだった。


 エリオ・バルト。


 死んだはずの水夫の名。


 偽の白い鳥。


 青い細線。


 カロ・ディーノ。


 黒帆。


 円の中の目。


 どれも、まだ海に残っている。


 どれも、沈めたままにはできない。


 サレーネ船団の白い鳥は、誰かを騙すための印ではない。


 誰かの名を奪うための翼ではない。


 海で迷った者を、正しい港へ戻すための印でなければならない。


 そうでなければ、自分が船に立つ意味がなくなる。


「リヴィア様」


 背後からマリノの声がした。


「ガスパル殿が目を覚ましました」


「話せますか」


「少しなら」


「行きます」


 リヴィアは振り返った。


 マリノはいつもの無表情だった。


 だが、その目は少しだけ疲れている。


 ガスパルを診て、ロドを診て、船を見て、海を越えた。


 船医もまた、この航海で多くを抱えた。


「マリノ」


「はい」


「ロド・カナリの処置記録は」


「ロド・カナリのままです」


「そうしてください」


「承知しています」


 マリノは、ほんの少しだけ間を置いた。


「医療記録の外で覚えておく名も、あります」


 リヴィアはマリノを見た。


 彼はそれ以上、何も言わなかった。


 踏み込まない。


 だが、分かっている。


 やはり、この船医は油断ならない。


「それは」


 リヴィアは言った。


「私の記録でもあります」


「では、重複記録ですね」


「消しますか」


「いいえ」


 マリノは淡々と言った。


「重複して残る名は、消えにくい」


 リヴィアは、少しだけ目を伏せた。


 正確な言葉だった。


 そして、少しだけ優しい言葉だった。


「ガスパル殿のところへ」


「はい」


 二人は船長室へ向かった。


 船内は静かだった。


 水夫たちは声を抑えて動いている。


 誰も、港に降りた男の名を口にしない。


 ロド・カナリ。


 レオン。


 どちらの名も。


 それでよかった。


 名は、必要な時にだけ呼べばいい。


 必要でない時に呼べば、風に拾われる。


 風に拾われた名は、海のどこへ流れるか分からない。


 船長室の前で、リヴィアは一度だけ足を止めた。


 窓の外に、オストマルクの陸影が見える。


 もう小さい。


 あの陸の上を、彼は歩いている。


 痛みを持ったまま。


 借り物を抱えたまま。


 半分の本当だけを持って。


 レオン。


 そう呼んだ時の、彼の顔を思い出す。


 驚いたような。


 痛んだような。


 少しだけ、救われたような顔。


 その顔を、リヴィアは記録しないことにした。


 いや。


 紙には記録しないことにした。


 胸の中に残すものまで、すべて紙にする必要はない。


「リヴィア様」


 マリノが再び呼んだ。


「行きます」


 リヴィアは扉を開けた。


 ガスパルは寝台に横たわっていた。


 顔色はまだ悪い。


 だが、目は開いている。


 怯えもある。


 後悔もある。


 そして、話す覚悟も少しだけある。


「リヴィア様」


 ガスパルが掠れた声で言った。


「話せますか」


「少しなら」


「では、少しずつで構いません」


 リヴィアは椅子に座った。


 机の上には、白紙の記録紙。


 船団印。


 インク。


 ペン。


 彼女はペンを持った。


 手は震えていない。


 今は、船団の娘として書く時間だ。


 自分だけの記録ではない。


 船団が沈めかけた名を、引き上げるための記録。


「三年前のラグナ沖から、始めます」


 ガスパルが目を閉じた。


 それから、ゆっくり頷いた。


「はい」


「エリオ・バルトは、本当に死んだのですか」


 部屋の空気が重くなる。


 マリノは黙って脈を見ている。


 リヴィアはペン先を紙に置いた。


 ガスパルは、小さく息を吐いた。


「いいえ」


 その一言で、リヴィアの指が止まった。


 だが、すぐに動いた。


 書く。


 沈めないために。


「続けてください」


「エリオは、生きて降ろされました。少なくとも、あの夜は」


「どこへ」


「ラグナ沖の灯台島です。そこから先は、カロが手配しました」


「カロ・ディーノ」


「はい」


「誰の指示で」


 ガスパルは唇を噛んだ。


 言いたくない顔だ。


 だが、言わなければならない顔だ。


「紙の向こうの人、と呼ばれていました」


 リヴィアは、その言葉を記録した。


 紙の向こうの人。


 黒帆は手。


 目ではない。


 カロは紙を通す者。


 その向こうに、まだ誰かがいる。


「印は」


 リヴィアが訊いた。


 ガスパルは小さく頷いた。


「円の中の目」


 インクが紙に沈む。


 その黒さを見て、リヴィアは思った。


 海の汚れは、塩で落ちる。


 血も、早ければ洗える。


 だが、紙に沈んだ嘘は、洗っても消えない。


 だから、上から正しい記録を重ねるしかない。


 消すのではなく。


 沈めるのではなく。


 取り戻す。


 それが、これからの仕事だ。


 レオンは南へ行った。


 テオは西へ向かう。


 リューリックという男は、どこか陸の道にいる。


 レイラという女は、北の霧の先にいる。


 道は分かれた。


 だが、記録は切れない。


 リヴィアは、ガスパルの言葉を書き続けた。


 外では、白い帆が風を受けている。


 船はシーロへ戻る。


 戻って、沈みかけた名を引き上げるために。


 そして、いつかどこかの港で、レオンという名をもう一度呼べるように。


 リヴィアはペンを止めずに、小さく息を吸った。


 潮の匂いがした。


 海は甘くない。


 だが、海は道を消すだけではない。


 道を残すこともある。


 白い鳥は、まだ飛べる。


 なら、飛ばなければならない。



──Another Side 了


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