第三十二部 ロド・カナリを、港に置いていく話 ④ 港を置いていく
港に降りる時、俺は手すりを掴んだ。
腰帯ではない。
手すりだ。
最後まで、そこは間違えなかった。
「成長しましたね」
リヴィアが言った。
「何が」
「手の選び方です」
「そこを褒めるな」
「重要です」
テオが笑った。
「レオン、君の成長は時々、たいへん低いところにあるね」
「低くても成長だ」
「それはそうだ」
マリノが、最後に小さな包みを渡した。
「炎症止めです。眠り薬は入れていません」
「なぜ」
「眠る場所を選べない旅になるでしょうから」
「助かる」
「痛み止めも入れていません」
「なぜ」
「痛みを消すと、あなたは動きます」
「信用がない」
「半分くらい」
「残り半分は」
マリノは少し考えた。
「医療判断です」
「心配ではないのか」
「それも、少し」
「少しか」
「医者ですので」
俺は包みを受け取った。
「ありがとう」
「生きてください」
「医者らしいな」
「はい」
テオが手を差し出した。
「次に会う時、君が別の名前で呼ばれていたらどうするかな」
「ロドでいい」
「外では?」
「ああ」
「内では?」
「高く売るな」
「預かるだけだよ、レオン」
俺はその手を握った。
リヴィアは、最後まで少し離れて立っていた。
船団の者として。
指揮官として。
海の姫として。
だが、別れの直前、彼女は一歩だけ近づいた。
「レオン」
「何だ」
「戻ってください」
ニーナの六番と同じ言葉だった。
だが、声が違う。
意味も少し違う。
「どこへ」
俺が訊くと、リヴィアは一瞬だけ迷った。
そして言った。
「本物を見失わなかった場所へ」
胸の奥が、また痛んだ。
「難しいな」
「はい」
「半分なら」
「半分でも」
「分かった」
「返事は」
「実行」
リヴィアは頷いた。
俺は船を降りた。
一歩。
灰色の石。
二歩。
潮の匂い。
三歩。
陸の重さ。
四歩。
誰も支えていない。
五歩。
振り返らない。
六歩。
からん、と革袋の中で硝子管が鳴った。
七歩目で、少しだけ振り返った。
《白翼》の甲板に、三人がいた。
リヴィア。
テオ。
マリノ。
短い旅の仲間。
俺をロドとして拾い、レオンとして降ろしてくれた人たち。
俺は手を上げた。
彼らも、それぞれに応えた。
リヴィアはまっすぐ。
テオは軽く。
マリノは小さく。
船は、また海へ戻る。
俺は、陸へ進む。
一つの出会いが終わる音がした。
いや。
音ではない。
革袋の中で、軽いものたちが鳴っただけだ。
◇
オストマルクの街道は、夕暮れの色をしていた。
港から内陸へ伸びる道。
両側には低い草地。
遠くに森。
さらに遠くに、古い砦の影。
俺は一人で歩いていた。
完全に一人だ。
リューリックはいない。
テオはいない。
リヴィアはいない。
マリノはいない。
それでも、完全に一人ではなかった。
革袋がある。
言葉がある。
痛みがある。
痛い。
脇腹。
足。
胸。
だが、歩ける。
半分の本当ではない。
今は、本当に歩ける。
港の外へ出ると、道は三つに分かれていた。
北へ向かう道は海岸線へ続き、その先には漁村と、小さな見張り台がある。さらに北へ進んでも海へ出るだけで、船がなければアルストラへは戻れない。
東側は、港の倉庫と荷捌き場へつながっている。魚と塩と木材を積んだ荷車が並び、仕事を終えた男たちが低い声で話していた。
俺が歩くのは、西へ伸びる道だった。
少し進めば黒松林へ入り、さらに西から西北西へ向かえば、帝国最北部の旧軍道へ合流する。その道のどこかに、旧リュカリオン領域へ続く入口が残っている。
北にはレイラがいる。
いるかもしれない。
もう、別の場所へ抜けたかもしれない。
追いたい気持ちは消えない。それでも、俺が感情だけで妹の足跡をたどれば、紙にならなかった道まで紙にしてしまう。
だから先に、陸へ戻る。
俺の名前を紙にしている場所を見る。
白い鳥の羽根を真似た者が、何を奪おうとしているのか確かめる。
港を離れるほど、潮の匂いは薄くなった。
背後では、水夫たちが綱を解いている。《白翼》も、やがて港を離れるのだろう。
振り返ろうと思えば、振り返ることはできた。
だが、振り返らなかった。
リヴィアも、テオも、マリノも、自分の道へ向かった。
俺も歩く。
一人で。
誰も隣にいない道を。
革袋の中で、空の硝子管が鳴った。
からん。
「実行」
誰に聞かせるでもなく、小さく言った。
西へ伸びる道の先で、黒松の枝が風に揺れていた。
俺は、その森へ向かって歩き始めた。
──第二章 了




