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第三十二部 ロド・カナリを、港に置いていく話 ③ 最後の診察と、本当の名

 マリノとは、甲板下の処置室で向き合った。

 最後の診察だった。

 少なくとも、この航海では。

「上着を」

「また脱ぐのか」

「脇腹を確認します」

「医者はすぐ脱がせる」

「必要です」

「リヴィアみたいなことを言うな」

「彼女は船の管理者です。私は体の管理者です」

「管理者が多い」

「あなたには必要です」

 包帯が外される。

 傷は塞がりかけている。

 まだ赤い。

 だが、初めて見た時よりずっとましだ。

「走らないでください」

「分かってる」

「剣を抜かないでください」

「分かってる」

「痛みが増したら休んでください」

「分かってる」

「女の人にいいところを見せようとしないでください」

「それは医療指示か」

「ニーナ殿の指示を、医学的に支持します」

「余計なところで繋がるな」

 マリノは真顔だった。

 真顔で、少しひどいことを言う。

「処置記録は、ロド・カナリのままでよろしいですね」

「ああ」

「オストマルクで別れた後、別の名を使う場合でも、私が診た患者はロド・カナリです」

「そうしてくれ」

「承知しました」

 マリノは新しい包帯を巻いた。

 手つきはいつも通り淡々としている。

 だが、結び目が少しだけ柔らかかった。

「マリノ」

「はい」

「ありがとう」

 彼の手が、ほんの少し止まった。

 すぐに戻る。

「医療行為です」

「それでも」

「では、受け取ります」

「商人みたいだな」

「テオ殿のせいです」

「この船、感染してるな」

「言葉は感染します」

「医者が言うと怖い」

 マリノは包帯を結び終えた。

「ロド殿」

「何だ」

「名前は、記録だけのものではありません」

 珍しく、彼の声が少しだけ柔らかかった。

「呼ぶ人間がいるから、名前は残ります」

「医者の言葉か」

「患者を看取った時に覚えた言葉です」

 俺は黙った。

 マリノは続けた。

「あなたが別の名を持っているなら、呼ばせる相手は選んでください。誰にでも呼ばせる必要はありません」

「分かった」

「返事は」

 お前まで言うのか。

 そう思った。

 だが、言った。

「実行」

 マリノは少しだけ頷いた。

「よろしい」



 ◇



 オストマルク沿岸の小港は、夕方に見えた。

 大きな港ではない。

 補給と漁に使われる、灰色の石でできた港だ。

 遠くには低い丘。

 その奥に、黒い森。

 さらにその先に、グランデル帝国の内陸へ続く道がある。

 旧リュカリオンの領域へ向かう道も、どこかでそこに繋がっている。

 船が港に近づく。

 水夫たちが綱を準備する。

 ガスパルは寝台のまま、船内に残る。

 リヴィアはシーロへ戻る。

 マリノも戻る。

 テオは、ここで別の商船に乗り換えるか、陸路で商会支部へ向かう。

 俺は、ここで降りる。

 一人で。

 リューリックはいない。

 ニーナもいない。

 テオも、リヴィアも、マリノも、ここからはいない。

 革袋だけがある。

 白い羽根。

 空の硝子管。

 青銅の札。

 死者名簿。

 借り物の言葉。

 借り物の目。

 借り物の痛み。

 それらを持って、歩く。

 港に着く前、俺は三人を呼んだ。

 甲板の端。

 夕方の風。

 船の影。

 灰色の海。

 誰も、先に口を開かなかった。

「ロド・カナリ」

 リヴィアが言った。

「その名で、呼んでよいのはここまでですか」

 やはり、この女は鋭い。

 いや、鋭いというより、逃げ道を閉じるのがうまい。

 俺は少しだけ笑った。

「外では、ロドでいい」

「では、外ではない時は」

 テオが、黙ってこちらを見ている。

 マリノも薬箱を持ったまま立っている。

 俺は、革袋を握った。

 空の硝子管が鳴る。

 からん。

 戻ってくる。

 レイラ。

 リューリック。

 ニーナ。

 セラ。

 カミラ。

 ヴェロニカ。

 エルゼ。

 マレーナ。

 ハンナ。

 リータ。

 ヴィクトル。

 借りたものが多すぎる。

 だから、せめて名前くらいは、自分で渡す。

「ロド・カナリじゃない」

 俺は言った。

 声は、思ったより静かだった。

「レオンだ」

 口にした瞬間、自分の名が、胸の奥で重くなった。

 捨てたつもりはない。

 忘れたつもりもない。

 だが、長いこと人前に出していなかった名だ。

 光に当てると、思ったより傷だらけだった。

「今は、それだけで勘弁してくれ」

 テオが、ゆっくり息を吐いた。

「レオン、か」

「高く売るなよ」

「売らないよ」

 テオは薄く笑った。

 だが、その目は笑っていなかった。

「これは、買う名じゃない。預かる名だ」

 リヴィアは、俺を見ていた。

 いつもの記録する目だった。

 けれど、少しだけ違った。

「船団記録には、ロド・カナリと残します」

「ああ」

「私の記録には」

 彼女は少しだけ間を置いた。

「レオン、と」

「するなと言っても」

「します」

「だろうな」

 マリノが静かに言った。

「処置記録は、ロド・カナリのままでよろしいですか」

「頼む」

「承知しました」

 マリノは頷いた。

「では、私が診た負傷者はロド・カナリです。今、名乗られた方については、医療記録の外で覚えておきます」

「器用だな」

「守るものが多い職ですので」

 その言葉で、少しだけ胸が楽になった。

 名を出したのに、世界は壊れなかった。

 いや、少し変わった。

 だが、壊れはしなかった。

「レオン」

 リヴィアが、初めてその名を呼んだ。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

「はい」

 俺は、反射で答えた。

 リヴィアが少しだけ驚いた顔をした。

 テオが笑いを堪えた。

 マリノは何も言わなかった。

「違う」

 俺は言った。

「今のは、なしだ」

「記録します」

「するな」

「します」

「やっぱりか」

 リヴィアは、ほんの少し笑った。

「返事は?」

 俺は苦笑した。

 ロド・カナリとして。

 レオンとして。

 どちらでもある声で答えた。

「実行」



 ──第三十二部 了


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