第三十二部 ロド・カナリを、港に置いていく話 ② オストマルクの空と、テオ
オストマルクの海が近づくにつれて、空の色が変わった。
シーロの青ではない。
アルストラの白でもない。
もっと鈍い。
雲が低く、海の色も少し鉄に近い。
遠くに、黒い海岸線が見えた。
グランデル帝国の南方戦線に近い土地。
オストマルク。
かつて戦火が押し寄せ、いまも火種が残る場所。
そこへ戻る。
戻る。
その言葉が、また胸に引っかかった。
ニーナの六番。
戻ってくる。
俺はリンデンへ戻れていない。
レイラのところへも戻れていない。
リューリックのところへも戻れていない。
それなのに、また別の場所へ戻ろうとしている。
戻るとは、何だ。
来た道を引き返すことだけではない。
本物を見失わずに、いつかそこへ帰ること。
北入り江でそう思った。
だが、思っただけでは足りない。
歩かなければならない。
「ロド・カナリ」
リヴィアが言った。
「何だ」
「顔が、また遠くへ行っています」
「顔は自由だな」
「体は自由ではありません」
「そこを突くな」
「必要です」
彼女は、俺の横に立った。
船首に近い場所。
風が強い。
彼女の外套が揺れる。
俺は手すりを掴んだ。
腰帯ではない。
手すりだ。
安全。
非常に安全。
「今、手すりを強く確認しましたね」
「手すりは大事だ」
「はい」
「腰帯より」
「その言葉は、続けない方がいいです」
「実行」
リヴィアは、少しだけ笑った。
七日間の海と、アルストラの北入り江と、今日の別れ。
その全部を越えて、彼女は笑った。
少しだけ、胸が痛い。
今度はマリノ案件ではない。
「リヴィア」
「はい」
「シーロへ戻ったら、どうする」
「船団の記録を洗います。ガスパルの証言を取ります。エリオ・バルトの名を戻します。偽の白い鳥を使った者を探します。カロ・ディーノの流した紙と、黒帆の残党を追います」
「忙しいな」
「船団の仕事です」
「俺のことは」
言ってから、少しだけしまったと思った。
聞くつもりではなかった。
だが、口から出た。
リヴィアは、海を見たまま答えた。
「記録します」
「それは知ってる」
「それから、待ちます」
「待つ?」
「情報を」
「ああ」
「あなたが無事に歩いているという情報を」
今度は俺が黙った。
リヴィアは続けた。
「人を待つ、と言うと、少し違います。私は船団の者です。港を離れられない時があります。けれど、情報は待てます。記録も待てます」
「俺が死にかけた情報でも?」
「それは、できれば要りません」
「努力する」
「努力ではなく」
「実行」
言った瞬間、リヴィアの表情が少しだけ柔らかくなった。
「その返事は、誰のものですか」
「借り物だ」
「では、返すのですか」
「まだ返さない」
「なぜ」
「返す相手が多すぎる」
リヴィアは、小さく頷いた。
「では、持っていてください」
「いいのか」
「必要です」
この女は、最後まで必要と言う。
だが、その言葉に何度も助けられた。
◇
テオとは、船室で話した。
彼は帳面を閉じ、油布に包んでいた。
商人の荷作りは速い。
まるで、最初から別れる準備をしていたようだった。
「寂しいか」
俺が訊くと、テオは薄く笑った。
「君がそういうことを言うと、少し高くつくよ」
「値段をつけるな」
「では、寂しくないと言っておく」
「嘘だな」
「半分くらい」
「残り半分は」
「忙しい」
テオは帳面を叩いた。
「僕はカラベル方面へ行く。偽オーランド商会名義を使った紙の出所を探る。カロ・ディーノは、商人の世界に手を入れすぎた」
「怒ってるのか」
「少しね」
「珍しい」
「商売は嘘を扱う。でも、嘘にも作法がある」
「作法」
「人を荷にする嘘は、商売ではない。あれは簒奪だ」
テオの声は静かだった。
だが、軽くない。
「オーランドの名を使われたのも腹が立つ。僕の故郷の商人は、ずるい。だが、ずるさには境界がある」
「お前が言うと説得力があるな」
「褒め言葉として受け取るよ」
「半分だけな」
「十分だ」
テオは少し黙った。
それから、いつもの調子を少しだけ外して言った。
「ロド。いや、今はまだロドと呼んでおくけど」
「何だ」
「君の妹君のことは、僕も追う。直接ではない。紙と商流から」
「助かる」
「ただし、僕が先に何かを見つけても、すぐには届けられないかもしれない」
「分かってる」
「それでも?」
「頼む」
テオは、少しだけ目を細めた。
「君は、頼むのが少し上手くなったね」
「そうか」
「うん」
「誰のせいだ」
「周りの女たちと、たぶん少しだけ僕のせいだ」
「自分を混ぜるな」
「商人は利益に敏感だからね」
俺は笑った。
脇腹が少し痛んだ。
テオは帳面を胸元に入れた。
「僕は、君の秘密を売らない」
「知っている」
「高くても?」
「高いのか」
「かなり」
「なおさら売るな」
「売らない」
テオは手を差し出した。
俺はその手を握った。
商人の手だった。
紙を扱う手。
荷を扱う手。
人を見落とすこともある手。
けれど、今回は俺の名を預けてもいいと思える手だった。
まだ名は言わない。
別れ際だ。
そう決めていた。
──第三十二部 了




