表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

177/271

第三十二部 ロド・カナリを、港に置いていく話 ① 北へ行かなかった、ガスパル

 北へ行かなかった。

 そう言うと、逃げたように聞こえる。

 南へ戻った。

 そう言うと、敵の言葉に従ったように聞こえる。

 だが、どちらでもない。

 たぶん。

 少なくとも、そう思いたかった。

 北にはレイラがいる。

 いるかもしれない。

 もう、別の場所へ抜けたかもしれない。

 紙にならない道へ消えたのなら、俺が感情だけで追えば、その道を紙にしてしまう。

 なら、南へ行く。

 俺の名を紙にする場所があるというのなら、そこを見る。

 見て、燃やす。

 いや、燃やすとリヴィアに怒られる。

 沈めない。

 止める。

 取り戻す。

 そういうやり方で、やる。

 俺の名は、レオン。

 便宜上は、ロド・カナリ。

 二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。

 趣味、惚れること。

 専門、死にかけて誰かに縫い直されること。

 現在の肩書きは、南へ戻る兄。

 まだ、誰にもその名を渡していない。

 だが、今日、渡す。

 ロド・カナリではない名を。

 この三人には。



 ◇



 《白翼》は、アルストラを離れて南へ向かった。

 オストマルク沿岸まで、風が良ければ二日。

 潮が悪ければ三日。

 リヴィアはそう言った。

 俺はその説明を聞いて、少しだけ顔をしかめた。

「どうしました」

「二日と三日の差が大きい」

「海では小さい方です」

「海の感覚は、相変わらず信用できない」

「陸も、あまり信用できていませんでしたよ」

「坂が悪い」

「地形です」

「地形は敵だ」

 マリノが後ろから言った。

「その診断は前回も記録しました」

「診断にするな」

「では、患者の主張として記録します」

「もっと嫌だ」

 テオは甲板の端で、カロ・ディーノの清書帳の写しを油布に包み直していた。

 白い鳥の偽印。

 偽オーランド商会名義。

 カラベル自由諸島へ流れる紙。

 それらは、これからテオの荷になる。

 俺の荷ではない。

 それが、少し変な感じだった。

 これまで拾ったものは、たいてい革袋に入ってきた。

 空の硝子管。

 白い布。

 死者名簿。

 青銅の札。

 偽の白い鳥の木札。

 本物の白い羽根。

 軽いものばかり。

 軽いくせに、重いものばかり。

 だが、今回の紙はテオが持つ。

 今回の船はリヴィアが持つ。

 今回の傷はマリノが記録する。

 俺が全部を持たなくてもいい。

 そう思うと、少しだけ楽だった。

 少しだけ、不安でもあった。

「ロド」

 テオが言った。

「何だ」

「君は今、自分の荷が減って不安になっている顔をしている」

「また顔か」

「君の顔は、七日間でかなり読みやすくなった」

「成長か」

「退化かもしれない」

「商人は嫌いだ」

「僕も時々、嫌いになる」

 テオは笑った。

 だが、その笑いはいつもより薄かった。

 別れが近い。

 全員、それを知っている。

 だから、何気ない会話が少しだけ重い。

 俺たちは、それを知らないふりで話していた。



 ◇



 ガスパルは、まだ寝台の上だった。

 肩の傷は落ち着いている。

 熱も下がった。

 だが、マリノは「シーロへ戻るまでは証人ではなく患者です」と言った。

 ガスパルは、それを聞いて少しだけ笑った。

「俺はまだ、使えないのか」

「使うために生かしているわけではありません」

 マリノは淡々と答えた。

「生きているから、あとで証言できます」

「順番が逆か」

「はい」

「海の医者は、厳しいな」

「陸でも同じです」

 ガスパルは俺を見た。

「ロド・カナリ」

「何だ」

「お前は南へ行くのか」

「ああ」

「北ではなく」

「ああ」

「妹を追わないのか」

 リヴィアが少しだけ動いた。

 テオもこちらを見た。

 マリノは包帯を取り替えながら、手を止めなかった。

 俺は少しだけ黙った。

「追う」

 そう言った。

「でも、今すぐ北へ走ることだけが追うことじゃない」

 自分で言って、少し変な感じがした。

 こんな言葉を、俺が言う日が来るとは思わなかった。

 走るな。

 剣を抜くな。

 痛いと言え。

 途中で休め。

 女の人にいいところを見せようとするな。

 戻ってくる。

 ニーナの管理指示が、革袋の奥で音を立てた気がした。

「本物を見分ける目を残したいんだ」

 俺は言った。

「レイラが紙にしなかった道を、俺が紙にしたくない」

 ガスパルは長く息を吐いた。

「強いな」

「違う」

「違うのか」

「怖いだけだ」

「それでも動くなら、強いんじゃないか」

 俺は答えなかった。

 強いという言葉は、まだ扱いにくい。

 俺は何度も死にかけた。

 何度も誰かに拾われた。

 何度も縫い直された。

 それを強さと言っていいのか、まだ分からない。

 マリノが短く言った。

「怖いと申告できるなら、状態は悪くありません」

「医者は何でも状態にするな」

「状態を見るのが仕事です」

「では俺の状態は」

「歩行可能。ただし無理は不可。胸部痛は非外傷性の可能性が高い。自己判断で走る危険あり。継続管理推奨」

「ひどい」

「正確です」

 ガスパルが笑った。

 笑って、傷が痛んだのか顔をしかめた。

 マリノがすぐに見た。

「痛みは」

「ある」

「よろしい」

「よろしいのか」

「ない、と言われるより」

 どこかで聞いたようなやり取りだった。

 痛いと言える人間が、少しずつ増えていく。

 それが良いことなのかは分からない。

 だが、悪くはない気がした。



 ──第三十二部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ