第三十二部 ロド・カナリを、港に置いていく話 ① 北へ行かなかった、ガスパル
北へ行かなかった。
そう言うと、逃げたように聞こえる。
南へ戻った。
そう言うと、敵の言葉に従ったように聞こえる。
だが、どちらでもない。
たぶん。
少なくとも、そう思いたかった。
北にはレイラがいる。
いるかもしれない。
もう、別の場所へ抜けたかもしれない。
紙にならない道へ消えたのなら、俺が感情だけで追えば、その道を紙にしてしまう。
なら、南へ行く。
俺の名を紙にする場所があるというのなら、そこを見る。
見て、燃やす。
いや、燃やすとリヴィアに怒られる。
沈めない。
止める。
取り戻す。
そういうやり方で、やる。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
現在の肩書きは、南へ戻る兄。
まだ、誰にもその名を渡していない。
だが、今日、渡す。
ロド・カナリではない名を。
この三人には。
◇
《白翼》は、アルストラを離れて南へ向かった。
オストマルク沿岸まで、風が良ければ二日。
潮が悪ければ三日。
リヴィアはそう言った。
俺はその説明を聞いて、少しだけ顔をしかめた。
「どうしました」
「二日と三日の差が大きい」
「海では小さい方です」
「海の感覚は、相変わらず信用できない」
「陸も、あまり信用できていませんでしたよ」
「坂が悪い」
「地形です」
「地形は敵だ」
マリノが後ろから言った。
「その診断は前回も記録しました」
「診断にするな」
「では、患者の主張として記録します」
「もっと嫌だ」
テオは甲板の端で、カロ・ディーノの清書帳の写しを油布に包み直していた。
白い鳥の偽印。
偽オーランド商会名義。
カラベル自由諸島へ流れる紙。
それらは、これからテオの荷になる。
俺の荷ではない。
それが、少し変な感じだった。
これまで拾ったものは、たいてい革袋に入ってきた。
空の硝子管。
白い布。
死者名簿。
青銅の札。
偽の白い鳥の木札。
本物の白い羽根。
軽いものばかり。
軽いくせに、重いものばかり。
だが、今回の紙はテオが持つ。
今回の船はリヴィアが持つ。
今回の傷はマリノが記録する。
俺が全部を持たなくてもいい。
そう思うと、少しだけ楽だった。
少しだけ、不安でもあった。
「ロド」
テオが言った。
「何だ」
「君は今、自分の荷が減って不安になっている顔をしている」
「また顔か」
「君の顔は、七日間でかなり読みやすくなった」
「成長か」
「退化かもしれない」
「商人は嫌いだ」
「僕も時々、嫌いになる」
テオは笑った。
だが、その笑いはいつもより薄かった。
別れが近い。
全員、それを知っている。
だから、何気ない会話が少しだけ重い。
俺たちは、それを知らないふりで話していた。
◇
ガスパルは、まだ寝台の上だった。
肩の傷は落ち着いている。
熱も下がった。
だが、マリノは「シーロへ戻るまでは証人ではなく患者です」と言った。
ガスパルは、それを聞いて少しだけ笑った。
「俺はまだ、使えないのか」
「使うために生かしているわけではありません」
マリノは淡々と答えた。
「生きているから、あとで証言できます」
「順番が逆か」
「はい」
「海の医者は、厳しいな」
「陸でも同じです」
ガスパルは俺を見た。
「ロド・カナリ」
「何だ」
「お前は南へ行くのか」
「ああ」
「北ではなく」
「ああ」
「妹を追わないのか」
リヴィアが少しだけ動いた。
テオもこちらを見た。
マリノは包帯を取り替えながら、手を止めなかった。
俺は少しだけ黙った。
「追う」
そう言った。
「でも、今すぐ北へ走ることだけが追うことじゃない」
自分で言って、少し変な感じがした。
こんな言葉を、俺が言う日が来るとは思わなかった。
走るな。
剣を抜くな。
痛いと言え。
途中で休め。
女の人にいいところを見せようとするな。
戻ってくる。
ニーナの管理指示が、革袋の奥で音を立てた気がした。
「本物を見分ける目を残したいんだ」
俺は言った。
「レイラが紙にしなかった道を、俺が紙にしたくない」
ガスパルは長く息を吐いた。
「強いな」
「違う」
「違うのか」
「怖いだけだ」
「それでも動くなら、強いんじゃないか」
俺は答えなかった。
強いという言葉は、まだ扱いにくい。
俺は何度も死にかけた。
何度も誰かに拾われた。
何度も縫い直された。
それを強さと言っていいのか、まだ分からない。
マリノが短く言った。
「怖いと申告できるなら、状態は悪くありません」
「医者は何でも状態にするな」
「状態を見るのが仕事です」
「では俺の状態は」
「歩行可能。ただし無理は不可。胸部痛は非外傷性の可能性が高い。自己判断で走る危険あり。継続管理推奨」
「ひどい」
「正確です」
ガスパルが笑った。
笑って、傷が痛んだのか顔をしかめた。
マリノがすぐに見た。
「痛みは」
「ある」
「よろしい」
「よろしいのか」
「ない、と言われるより」
どこかで聞いたようなやり取りだった。
痛いと言える人間が、少しずつ増えていく。
それが良いことなのかは分からない。
だが、悪くはない気がした。
──第三十二部 了




