表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

176/276

第三十一部 北の入り江で、戻る道を選ぶ話 Another Side:リューリック

 灰色の十字は、赤よりも目立たない。

 それがよいのだと、御者台の女は言った。

「赤は目印になります。目印は助けにもなりますが、狙いにもなります」

「灰色なら」

「見落とされることがあります」

「それはよいことですか」

「戦場では、時々」

 リューリックは、荷馬車の後部に座っていた。

 左腕には新しい包帯。

 火傷の処置。

 切り傷の縫合。

 痛みはある。

 そう答えた。

 答えた結果、灰十字医療団の女に、少しだけ満足そうな顔をされた。

 不思議な経験だった。

 痛みを認めると、評価される。

 殿下の周囲にいた人々は、どうもこの奇妙な作法を各地に広めているらしい。

「痛みは」

 女が訊いた。

「あります」

「場所は」

「左前腕。火傷。切創部。肩に少し」

「よろしい」

「よろしいのですか」

「ない、と言われるよりずっと」

 女は記録板に書いた。

 灰十字医療団。

 王国、ブリエン、レヴォナの境で動く中立医療団。

 戦場の負傷者を拾い、身分より状態を見る。

 そう聞いた。

 リューリックは、まだ信用していない。

 だが、完全に疑ってもいない。

 世の中には、信用する前に使わなければならない道がある。

 この馬車は、その一つだった。

 荷台の隅には、彼が灰橋倉から持ち出した帳簿がある。

 青い細線の紙片。

 レヴォナ軽銀。

 穴のずれた青銅の札。

 北東島領。

 女。

 二十二前後。

 青線、接触済。

 そして、消されかけていた文字。

 北西。

 森。

 誓。

 リューリックは目を閉じた。

 殿下に知らせなければならない。

 だが、殿下はどこにいる。

 シーロか。

 アルストラか。

 海の上か。

 それとも、すでに別の道か。

 こういう時、殿下は最も予測しにくい場所で倒れている。

 それが困る。

 とても困る。

 だが、それが殿下でもある。

「リューリック殿」

 女が言った。

 リューリックは目を開けた。

「その名は」

「あなたが寝ている間に、同じ名を一度だけ言いました」

「……そうでしたか」

「仮名にしますか」

「サンドルでお願いします」

「では、処置記録はサンドル」

 女は迷わず書き直した。

「本名らしきものは?」

「記録しない方がよろしいかと」

「承知しました」

 あまりにもあっさりしていた。

 リューリックは、少しだけ目を細めた。

「訊かないのですか」

「医療記録に不要な名は、患者を危険にすることがあります」

 女は言った。

「必要になれば訊きます。必要でなければ、仮名で足ります」

 リューリックは黙った。

 正しい。

 そして、少しだけ厄介な正しさだった。

 馬車が揺れる。

 外には、レヴォナ方面の乾いた丘が続いている。

 風の中に、焦げた草と鉄の匂いが混じる。

 戦線が近い。

 そこで負傷者が出る。

 医療団が動く。

 記録が作られる。

 名前が残る。

 あるいは、消される。

 リューリックは帳簿をもう一度開いた。

 貨幣戦争。

 名簿。

 軽銀。

 青銅札。

 名を売る紙。

 王家筋。

 すべてが別々ではない。

 金の流れは、人の名を運ぶ。

 人の名は、国境を越えるための金になる。

 貨幣戦争は、ただの経済闘争ではない。

 人を別の国へ運ぶための、名の戦争でもある。

「整理が足りません」

 リューリックは呟いた。

「何がですか」

 女が訊く。

「世界が」

「それは、かなり大きな患者ですね」

「治りますか」

「記録から始めるしかありません」

 また、それだ。

 記録。

 リューリックは、ふと一人の女を思い出した。

 軽い声。

 淡い笑み。

 病棟の記録係。

 エルゼ。

 名前ではなく、人を減らさないために椅子を退ける女。

 あの女なら、この帳簿をどう見るだろうか。

 そう考えた自分に、少しだけ驚いた。

 まだ再会していない相手を、仕事の中で思い出す。

 不思議なことだ。

 馬車の前方で、別の医療団員が声を上げた。

「先行隊から伝令!」

 馬車が止まる。

 若い男が、息を切らして走ってきた。

「レヴォナ野戦支援所からです。負傷者多数。外科医の追加要請。帝国側から越境参加の医師が一名、記録係が一名、こちらへ回るとのこと」

 御者台の女が訊いた。

「名前は」

「外科医はヴェロニカ。記録係は」

 男は紙を見た。

「エルゼ、とあります」

 リューリックは、ほんのわずかに呼吸を止めた。

 誰にも分からない程度に。

 だが、自分では分かった。

 痛みとは別のところが、少し動いた。

「知り合いですか」

 女が訊いた。

「少し」

「では、よかったですね」

「よかった、のでしょうか」

「知っている記録係は、知らない記録係より少し安心です」

 リューリックは、答えなかった。

 安心。

 その言葉は、どうにも扱いにくい。

 殿下がいない。

 殿下に知らせるべき紙がある。

 自分は負傷している。

 戦線は近い。

 地下組織の紙はさらに西へ伸びている。

 安心など、あるはずがない。

 だが。

 エルゼが来る。

 その事実だけは、なぜか少しだけ、傷の熱を別の形に変えた。

「痛みは」

 女がもう一度訊いた。

 リューリックは左腕を見た。

 包帯。

 火傷。

 切り傷。

 その奥の、別の痛み。

「あります」

「よろしい」

「よろしい、ですか」

「ええ」

 女は馬車を出した。

 灰色の十字が、乾いた道を進む。

 リューリックは帳簿を胸元に戻した。

 北西。

 森。

 誓。

 レイラ様。

 殿下。

 紙は、まだ届かない。

 なら、届くまで生きる。

 それが今の仕事だ。

 リューリックは、馬車の揺れに身を任せた。

 あなたがいない道は、静かすぎます。

 ですが、殿下。

 静かな道にも、どうやら記録係が来るようです。



──Another Side 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ