第三十一部 北の入り江で、戻る道を選ぶ話 ③ 焦げた船と、返す名
船の中は、焦げていた。
だが、全部ではない。
焼かれた場所と、焼かれなかった場所がはっきり分かれている。
紙は燃えていた。
木箱も一部燃えていた。
だが、金具や札は残っている。
燃やす者は、すべてを消したかったわけではない。
見つけさせたいものを残している。
そういう燃やし方だった。
「嫌いな火だ」
俺は言った。
「同意します」
リヴィアが答えた。
「火は、燃やすか、温めるかのどちらかであるべきです」
「船の女らしいな」
「船を半分だけ燃やす者は嫌いです」
「半分にも悪い半分がある」
「あります」
テオが、焼け残りの木箱を開けた。
中には、濡れた油布が残っていた。
慎重に広げる。
紙片が三枚。
一枚目。
偽の白い鳥の印。
二枚目。
エリオ・バルトの名義札。
三枚目。
短い航路の記号。
北。
岩。
霧。
そして、途中で線が切れている。
「行き先は書いていない」
テオが言った。
「意図的だね」
「分かるのか」
「書き損じではない。ここから先は、紙にしないという意思がある」
「紙にしない方が安全な道か」
「そういうことだろう」
レイラ。
お前は、紙にしない道へ行ったのか。
なら、俺がここで無理に聞き出せば、その道を紙にしてしまう。
守るために答えない。
修道女の言葉が、今さら効いてきた。
リヴィアが船底に屈んだ。
「ここに何かあります」
焦げた床板の下。
青い細線で巻かれた小さな筒。
俺たちは、全員が一度黙った。
筒。
木札。
油布。
この流れには慣れてきた。
慣れたくはない。
リヴィアが布越しに筒を持ち上げる。
「開けます」
「待て」
俺は言った。
自分でも少し驚いた。
リヴィアが止まる。
「何です」
「それ、見つけさせるための筒だろ」
「はい」
「なら、開けさせるための罠もある」
テオの目が変わった。
マリノも一歩近づく。
「毒か」
「毒ならマリノ案件だ。そうじゃない。火だ」
俺は船底を指した。
「筒の下、床板の焦げ方が違う。こっちだけ黒い松脂が厚い。筒を抜くと、下の糸が引かれるんじゃないか」
リヴィアは、手を止めたまま筒の根元を見た。
細い糸。
黒く煤けて、床板の隙間に紛れていた。
彼女の顔が少しだけ険しくなる。
「ありました」
「ひどいな」
テオが言った。
「開けた人間ごと、残りの船を燃やす仕掛けだ」
「証拠を拾う者を焼くためか」
「それと、誰が慎重かを測るため」
俺は吐き気とは違うものを感じた。
紙の向こうの目。
誰かが見ている。
俺たちがどう動くかを。
俺が北へ走るかを。
リヴィアが怒りで手を伸ばすかを。
テオが紙欲しさに開けるかを。
マリノが患者のために近づくかを。
嫌な目だ。
「外す」
リヴィアが言った。
「俺がやる」
「駄目です」
「なぜ」
「手が震えています」
「顔か」
「手です」
俺は自分の手を見た。
震えていた。
腹が立った。
自分の手に。
リヴィアは、短剣ではなく、細い船具の針を取り出した。
縄の結び目を解くための道具だ。
彼女は糸に触れず、焦げた木片を少しずつ外した。
遅い。
慎重。
しかし、迷いはない。
俺はその横顔を見た。
船を背負う女。
偽物の鳥を許さない女。
昨日、胸元と腰を押さえて耳を赤くしていた女。
全部、同じ人間だ。
どれか一つではない。
そのことが、不思議と胸に残った。
やがて、糸が外れた。
リヴィアが筒を取り上げる。
開ける。
中には、紙ではなく、木片が入っていた。
小さな木片。
そこに焼き印が押されている。
円。
その中に、小さな目。
初めて、ここまで明確な印だった。
リヴィアの目が細くなる。
テオが低く息を吐く。
「出たね」
「円の中の目」
俺が言った。
口にすると、空気が少し冷えた。
木片の裏には、また文字があった。
北へ行った名は、まだ紙にならない。
兄の名は、南で紙になる。
俺の血が、ゆっくり冷えた。
「兄の名」
リヴィアが言った。
「あなたのことですね」
「ああ」
「南で紙になる」
テオが、言葉を噛むように繰り返した。
「南に、君の名を待っている紙がある」
俺は木片を見た。
兄は南へ戻れ。
兄の名は、南で紙になる。
敵は、俺に南へ来いと言っている。
誘っている。
脅している。
それとも、測っている。
どれでも同じだ。
俺は、見られている。
ロド・カナリとしてではなく。
レイラの兄として。
その先にある名として。
「ロド」
テオが言った。
「これは、追ってはいけない誘いだ」
「北のことか」
「南のことだ」
俺はテオを見た。
「南に行くな、と?」
「行くなら、誘われたことを理解して行け、ということだ」
リヴィアが頷いた。
「北も同じです。北へ追えば、妹君の逃げ道を紙にします。南へ戻れば、あなたの名が紙にされる」
「どちらも嫌だな」
「はい」
リヴィアの声は静かだった。
「どちらも嫌です」
俺は、少しだけ笑った。
笑う場面ではない。
だが、その言葉は、前に彼女が言った言葉だった。
エリオが生きて名を売ったのか。
死んで名を使われたのか。
どちらも嫌だ。
今度は俺の番だった。
北へ行くのも嫌だ。
南へ行くのも嫌だ。
立ち止まるのは、もっと嫌だ。
「なら」
俺は言った。
「嫌な方へ行くしかない」
「どちらへ」
リヴィアが訊いた。
俺は北の海を見た。
灰色の水路。
岩。
霧。
その先に、レイラがいるかもしれない。
追いたい。
いますぐ追いたい。
足が動くなら。
船があるなら。
全部捨てて追いたい。
だが、レイラは会わないために逃げた。
俺を守るために。
いつか会うために。
なら、俺が今やるべきことは、彼女の逃げ道を踏み荒らすことではない。
本物の羽根を見分けろ。
机の傷を読め。
紙にされる前に、紙を作る手を見ろ。
それが、レイラが残したものだ。
「南へ行く」
俺は言った。
リヴィアも、テオも、マリノも黙った。
「北は追いたい。でも、今追えば、敵の目を連れていく。レイラが紙にしなかった道を、俺が紙にすることになる」
俺は木片を見た。
「だから南へ行く。誘われているのは分かってる。だが、南に俺の名を紙にする場所があるなら、そこを見に行く」
「どこへ」
テオが訊いた。
「オストマルク」
口にした瞬間、風が少し変わった気がした。
オストマルク。
グランデル帝国の戦線に近い土地。
旧リュカリオンの記憶にも、王国との戦にも、イタリカからの逃亡路にも、いずれ繋がる場所。
そこへ戻る。
敵の言葉通りではない。
俺の都合で。
レイラを追うためではなく、レイラを追える日を残すために。
「オストマルクか」
テオが低く言った。
「南へ戻れ、という言葉とも合うね」
「罠だろうな」
「かなり」
「分かってる」
リヴィアが俺を見た。
「送ります」
「シーロへ戻るんじゃないのか」
「戻ります」
「なら」
「《白翼》でオストマルク沿岸まで送ります。その後、私はガスパルを連れてシーロへ戻る。船団の事件を片付けます」
「リヴィア」
「ここであなたを置くと、勝手に変な船に乗ります」
「否定したい」
「できますか」
「難しい」
「では、送ります」
テオが肩をすくめた。
「僕もオストマルクまでは同行するよ。そこからは、商人の道へ戻る」
「カラベルか」
「ああ。カロ・ディーノの紙は、カラベル自由諸島方面に流れる。偽オーランド商会名義を使った理由も、僕が調べる」
「危ないぞ」
「君に言われると新鮮だね」
「さっきも言われた気がする」
「何度でも言う価値がある」
マリノが淡々と言った。
「私はガスパル殿の処置があります。シーロへ戻ります」
「そうか」
「ですが、オストマルクまでは同行します。あなたの脇腹の経過を見ます」
「俺も処置対象か」
「継続管理対象です」
「懐かしいな」
「まだ新しいです」
俺は三人を見た。
リヴィア。
テオ。
マリノ。
七日間、同じ船で海を渡った。
桶に負けるところも見られた。
名を半分落とした。
妹の名を口にした。
救われた。
笑われた。
記録された。
ここから、それぞれ別れる。
その前に、言わなければならないことがある。
だが、まだ今ではない。
俺はそう思った。
名は、別れ際に返すべきだ。
ロド・カナリではない名を。
この三人には。
──第三十一部




