第三十一部 北の入り江で、戻る道を選ぶ話 ② 北の入り江
北入り江は、細い岩場だった。
白い崖の下に、小さな舟着き場がある。
正式な港ではない。
漁師が使うような場所だ。
岩の間を抜ける細い水路があり、潮が引けば小舟を隠せる。
潮が満ちれば、外から見つけにくい。
逃げるには向いている。
追うには、嫌な場所だ。
そこに、船が一艘あった。
小型の私船。
偽の白い鳥の印。
船体の半分が水に沈み、船底の一部が焼け焦げている。
まだ煙の匂いが残っていた。
黒い松脂の匂いも。
「黒帆と同じ匂いだ」
俺が言うと、テオが頷いた。
「火のつき方も似ている。燃やすためというより、燃えたことを見せるための火だね」
「証拠消しではないのか」
「半分は証拠消し。半分は演出」
「嫌な半分だな」
「君の得意分野だろう」
「俺の半分はもう少し善良だ」
「そう願うよ」
リヴィアは、船の印を確認していた。
白い鳥。
だが、翼の角度が違う。
脚に見せかけた青い細線。
本物を知る者なら、分かる。
知らない者なら、通してしまう。
リヴィアの指が、その青い線の上で止まった。
「うちの鳥ではありません」
静かな声だった。
怒っている。
だが、怒鳴らない。
彼女は怒ると、いつも少し静かになる。
「本物の羽根を、彼女が残した理由が分かります」
リヴィアは言った。
「偽物と本物を、誰かに見分けてほしかった」
「俺にか」
「あなたに。あるいは、本物を見る目を失っていない誰かに」
俺は革袋を押さえた。
本物の白い羽根が入っている。
軽い。
あまりにも軽い。
だが、今はもう、簡単に持てる重さではない。
マリノが船体の焦げ跡を見ていた。
「燃焼油に松脂が混ぜられています。毒ではありませんが、匂いが残る」
「わざと残したのか」
「おそらく」
テオが岩場の砂を見た。
「足跡が多い」
「何人だ」
「最低で四人。小舟を動かした者が二人。偽の白い鳥側が二人。あと、荷車の跡がある」
俺は北の水路を見た。
灰色の海。
細い入り江。
その先の見えない北。
レイラは、そこから出たのか。
小舟で。
荷に紛れて。
名を変えて。
俺が海の上で桶と戦っている間に。
胸が痛む。
だが、ここで痛いと言うと、マリノが来る。
今回は少しだけ我慢した。
いや。
それも違う。
「胸が痛い」
俺は言った。
マリノがこちらを見た。
「脈は」
「たぶん違う」
「では、記録はリヴィア様へ」
「何でも回すな」
リヴィアは少しだけこちらを見た。
その目が、いつもの記録する目だった。
だが、今は少し柔らかい。
「記録しました」
「するのか」
「必要です」
必要。
またそれだ。
だが、今日はその言葉が少しだけありがたかった。
──第三十一部 了




