第三十部 白い羽根が、空の部屋に残る話 Another Side:レイラ
北の海は、シーロの海より冷たかった。
アルストラを出てから、六日。
小舟を乗り継ぎ、漁師の荷に紛れ、名を変え、道を変え、風を待った。
レイラは、狭い船倉の隅で白い羽根を握っていた。
修道女から受け取った、本物の白い鳥の羽根。
軽い。
あまりにも軽い。
けれど、捨てられなかった。
偽物と本物を見分けるため。
そう言われた。
だが、レイラにはもう一つの意味があった。
兄が本物を見る目を、まだ失っていないと信じるため。
兄は、たぶん来る。
来てしまう。
来ないでほしい。
でも、来ないでほしいと思うほど、来てほしいと思っている自分がいる。
その矛盾が、胸の奥でずっと痛んでいる。
「寒いですか」
漁師の娘が訊いた。
レイラは首を横に振った。
「平気です」
「平気な人は、そんな顔をしません」
どこかで聞いたような言い方だった。
レイラは少しだけ笑った。
「では、少し寒いです」
「正直でよろしい」
漁師の娘は、乾いた布を一枚渡してくれた。
レイラはそれを肩にかける。
白い羽根を革袋へ戻した。
その革袋の中には、青い細線の紙片もある。
円の中の目の印もある。
古いリュの線もある。
どれも捨てられない。
怖いものを持っている方が、怖くない時がある。
兄が昔、似たようなことを言った気がする。
いや、たぶん兄はもっと雑だった。
嫌なものほど、持ってた方が見失わない。
そんな言い方だったかもしれない。
船が揺れた。
船倉の外で、低い角笛が鳴る。
漁師の娘が顔を上げた。
「島影です」
「どこの」
「フィヨルドの外れ。ここから先は、入り江を隠れて進みます」
フィヨルド。
北西の島々。
岩と霧と小舟の国。
ここまで来れば、アルストラの白い壁はもう見えない。
兄のいるかもしれない海も、少し遠くなる。
遠くなることに、ほっとした。
遠くなることに、泣きそうになった。
レイラは、船倉の小さな隙間から外を見た。
灰色の岩。
白い霧。
黒い鳥。
海は静かに見えるが、底に冷たい流れがある。
この先に、森の国がある。
シルヴァス神聖王国。
古い誓約の国。
人間の王家の名を、紙ではなく記憶で覚えているかもしれない国。
「兄上」
小さく呟いた。
返事はない。
当然だ。
けれど、レイラは続けた。
「今は、来ないでください」
言ってから、目を閉じた。
それは祈りではない。
嘘でもない。
会わないために逃げている。
いつか会うために。
白い羽根が、革袋の中で軽く揺れた。
その軽さが、今はとても重かった。
──Another Side 了




