第三十部 白い羽根が、空の部屋に残る話 ③ 空の部屋と、白い羽根
レイラの部屋は、空だった。
小さな部屋だった。
白い壁。
細い窓。
机。
椅子。
寝台。
棚には薬草と本。
窓の外には、北へ続く坂道が見えた。
もう誰もいない。
だが、誰かがいた気配は残っていた。
畳まれた布。
急いで開けた引き出し。
机の上の小さな焦げ跡。
紙を透かして見た灯火の跡だと、テオが言った。
俺は部屋の入口で止まった。
リヴィアの肩を借りたまま。
「入りますか」
リヴィアが訊いた。
「入っていいのか」
修道女が頷いた。
「あなたなら」
それが、さらに痛かった。
俺はリヴィアの肩から少しだけ離れた。
完全に離れると倒れるかもしれない。
だから、指先だけ、壁に触れた。
一歩。
二歩。
三歩。
床は揺れない。
だが、足元が遠い。
机の前に立つ。
何もない。
何もないのに、そこに紙があった気がする。
青い細線。
円の中の目。
古いリュ。
それをレイラが見た。
ここで。
俺は机に手を置いた。
小さな傷があった。
古い傷ではない。
新しい。
だが、わざと古く見えるように、浅く、何度も、迷いながら刻んである。
文字。
古いリュカリオン語の小さな文字。
下手な字。
子どもの頃の癖を真似た字。
俺は、それを読んだ。
森の王は、耳が長い。
息が止まった。
昔、レイラが俺に訊いた。
兄上、森の王は本当に耳が長いのですか。
俺は適当に答えた。
知らん。長かったら便利だろうな。
その日の午後、レイラは古い机の端に、同じ言葉を落書きした。
侍女に怒られた。
俺も一緒に怒られた。
なぜ俺まで怒られるのかと抗議した。
レイラは笑っていた。
その声が、いきなり胸を殴った。
「いた」
俺は言った。
「ここに、いた」
誰もすぐには返事をしなかった。
リヴィアは机の傷を見ている。
テオは俺の顔を見ている。
マリノは少し後ろで、俺が倒れない距離にいる。
修道女は静かに祈っている。
「ロド」
テオが言った。
「これは」
「妹の字だ」
言った。
今度は、迷わなかった。
「子どもの頃の癖が残ってる。横線が少し上がる。最後の点を忘れる」
「確かかい」
「確かだ」
俺は机の傷を指でなぞった。
これはレイラの字だ。
俺には分かる。
分かってしまう。
「生きてる」
もう一度言った。
「レイラは、生きてる」
名前が出た。
部屋の中に落ちた。
レイラ。
妹の名。
紙にしてはいけないと思っていた名。
だが、ここでは違う。
この部屋では、彼女は紙にされた名ではない。
机に傷を残した妹だ。
俺にだけ分かる、くだらない昔話を残した妹だ。
リヴィアは、静かにその名を受け止めた。
テオも、何も書かなかった。
マリノも、何も言わなかった。
修道女だけが、小さく頷いた。
「レイラ様は、生きておられます」
正式に、そう言った。
胸が痛い。
だが、今度の痛みは、少しだけ温かかった。
◇
修道女は、行き先を言わなかった。
最後まで言わなかった。
「守るためです」
それだけだった。
リヴィアも無理には聞かなかった。
テオも、商人の顔を消していた。
俺は、聞きたかった。
喉まで出かかった。
どこへ行った。
誰と行った。
どの道で。
いつ出た。
追えば間に合うのか。
だが、聞けば、レイラを危険にする。
そう思った。
修道女は、ただ一つだけ言った。
「北へ向かわれました」
北。
アルストラの北。
入り江。
小舟。
そこから先は、いくつもの海がある。
フィヨルド諸島かもしれない。
別の島かもしれない。
あるいは、偽の道かもしれない。
俺たちには、まだ分からない。
分からないから、焦る。
分からないから、進む。
「ロド・カナリ」
リヴィアが言った。
「何だ」
「追いますか」
「追いたい」
「追えますか」
俺は答えられなかった。
体の話ではない。
道の話でもない。
今追えば、レイラが逃げた意味を踏みにじるかもしれない。
追わなければ、二度と会えないかもしれない。
どちらも嫌だ。
リヴィアの言葉を思い出した。
「今は」
俺は言った。
「追い方を間違えたくない」
リヴィアは頷いた。
「それがいいと思います」
「珍しく優しいな」
「今は、少しだけ」
「記録するか」
「します」
「するのか」
「必要です」
テオが静かに言った。
「北の入り江を見よう。船の跡、荷車の跡、使った小舟。行き先そのものは聞けなくても、痕跡は残る」
「商人だな」
「商人だからね」
俺は机から手を離した。
森の王は、耳が長い。
レイラの字。
白い羽根。
生きているという一言。
今はそれだけで十分だった。
いや、十分ではない。
全然足りない。
だが、今の俺が持てるものとしては、それが限界だった。
また軽いものが増えた。
記憶。
机の傷。
白い羽根。
全部、軽い。
だから、あとで重くなる。
俺は部屋を出た。
支えられながら。
だが、歩いて。
窓の外、北の坂道に風が吹いていた。
レイラは、その先へ行った。
俺が来る前に。
会わないために。
いつか、会うために。
──第三十部 了




