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第三十部 白い羽根が、空の部屋に残る話 ② 修道院の表門


 修道院へ向かう坂は、白かった。

 石段と坂道が交互に続く。

 両側には葡萄棚。

 ところどころに薬草の鉢。

 乾いた風に、海と草の匂いが混じっている。

 俺は歩いていた。

 椅子ではない。

 担がれてもいない。

 ただし、リヴィアの肩を借りている。

 七日目にして、ようやく陸を歩いている。

 問題は、アルストラの坂が、俺に優しくないことだ。

「坂は敵だ」

 俺は言った。

「地形です」

 マリノが後ろから即答した。

「敵意がある」

「地形に意思はありません」

「なら、俺の方に敵意がある」

「それは治療対象ではありません」

「医者として見放すな」

「体は診ます」

 テオが後ろで笑った。

「ロド、陸に着いた途端に元気だね」

「元気ではない」

「口は戻っている」

「口しか戻っていない」

「十分だよ。君の口は時々、船より進む」

「それは褒めてるのか」

「半分くらい」

「残り半分は」

「危険」

 リヴィアが短く言った。

「同意します」

「お前まで」

「あなたの口は、時々、紙より先に秘密を落とします」

 妹。

 あの一言を思い出す。

 俺は、何も言えなくなった。

 坂道の途中から、港が見えた。

 《白翼》が小さく揺れている。

 船は揺れる。

 陸も揺れる。

 俺の中も揺れる。

 だが、歩いている。

 それだけは事実だった。

「ロド・カナリ」

 リヴィアが言った。

「何だ」

「無理なら止まります」

「無理ではない」

「半分の本当で」

「支えがあれば歩ける。坂は嫌いだ。胸は痛い。脇腹も少し痛い。今は止まりたくない」

 リヴィアは少しだけこちらを見た。

「よろしい」

「よろしいのか」

「かなり正確です」

 マリノが後ろで頷いた。

「良い申告です」

「医者二人みたいになってる」

「リヴィア様は患者管理に向いています」

「やめてくれ」

「記録に残します」

「全員、記録するな」

 テオが帳面を少し掲げた。

「もう遅い」

「商人」

「はい」

「燃やしたい」

「防火処理済みだ」

「用意がいいな」

「商人だからね」

 くだらない会話だった。

 だが、そのくだらなさが助かった。

 修道院の門が、近づいている。

 あの門の向こうに、妹がいたかもしれない。

 もういないかもしれない。

 そのことを考えると、足が重くなる。

 だから、くだらない会話で足を動かした。



 ◇



 修道院の表門には、年配の修道女が立っていた。

 白い頭巾。

 静かな目。

 手には鍵束。

 彼女は、こちらの白い鳥の印を見る前に、まずリヴィアの顔を見た。

 次に、テオの手元の紙。

 マリノの薬箱。

 最後に、俺を見た。

 長い沈黙が落ちた。

 読まれている。

 また顔かと思った。

 だが、今回は違った。

 この修道女は、俺の顔から何かを探している。

 現在ではなく、過去を。

「サレーネ船団、リヴィア・サレーネです」

 リヴィアが一礼する。

「本物ですね」

 修道女は静かに言った。

「偽物が来ましたか」

「来ました」

「名は」

「エリオ・バルトと名乗りました」

 リヴィアの横で、俺の手が少し強く革袋を握った。

「いつです」

「六日前の朝です」

 やはり。

 俺たちが海にいた間に。

 彼女は来ていた。

 そして、敵も来ていた。

「その者は、誰を探していましたか」

 リヴィアが訊く。

 修道女はすぐには答えなかった。

 俺を見た。

 静かな目だった。

「あなたは」

「ロド・カナリだ」

 俺は答えた。

 便宜上の名。

 もう、あまりにも薄い布のような名。

 修道女は、それを聞いても頷かなかった。

「少し、似ておられます」

 胸の奥が止まった。

「誰に」

 声が、少し掠れた。

 修道女は目を伏せた。

「紙の前では、言わない方がよい名があります」

 リヴィアが何も言わずに俺を見た。

 テオも。

 マリノは、俺の肩の高さと呼吸を見ている。

 ありがたい。

 この船医は、時々、本当にありがたい。

「その方は」

 リヴィアが静かに訊いた。

「まだ、ここにいますか」

 修道女は首を横に振った。

 その動きは、とても小さかった。

 だが、それだけで十分だった。

 俺の足元から、何かが抜ける。

 リヴィアの肩がなければ、たぶん崩れていた。

「六日前の昼前に、出られました」

 分かっていた。

 七日かけて来たのだ。

 ここにいるはずがない。

 そう思っていた。

 思っていたのに、胸の奥が落ちた。

「どこへ」

 俺が訊いた。

 修道女は、今度はまっすぐ俺を見た。

「答えられません」

「なぜ」

「守るためです」

「俺からも?」

 言ってしまった。

 リヴィアの肩が少し固くなった。

 テオは何も言わなかった。

 修道女は、迷わず答えた。

「はい」

 短い。

 きつい。

 けれど、嘘ではない答えだった。

 俺からも守る。

 その言葉は、思ったより深く刺さった。

 だが、すぐに分かった。

 レイラなら、そうする。

 俺に会えば、俺が止まると思う。

 俺が止まると、俺が危ないと思う。

 それを知っている。

 昔から、あの子は俺の弱いところを、俺より先に知っていた。

「生きているんだな」

 俺は言った。

 修道女は、わずかに目を閉じた。

 それから答えた。

「はい」

 世界が、少しだけ変わった。

 会えなかった。

 遅かった。

 もういなかった。

 どこへ行ったかも分からない。

 何も解決していない。

 でも。

 生きている。

 俺は息を吸った。

 吸いすぎて、脇腹が痛んだ。

「痛い」

 言葉が漏れた。

 マリノがすぐに近づく。

「どこが」

「胸と、脇腹」

「脇腹は私で、胸は少し難しいですね」

「そうだろうな」

 リヴィアが、俺の横に立ったまま言った。

「ロド・カナリ」

「何だ」

「今は、倒れないでください」

「努力する」

「努力ではなく」

 この場で、それを言うのか。

 リヴィアは本気だった。

 だから、俺も答えた。

「実行」

 修道女が、少しだけ驚いた顔をした。

「その返事は」

「借り物だ」

 俺は言った。

「いろんな人から借りて、まだ生きてる」

 修道女は静かに頷いた。

「では、その方もきっと、どこかで借り物を持っておられます」

「何を」

「白い羽根です」

 リヴィアの表情が変わった。

「羽根?」

「本物のサレーネ船団の印を知る者に見せるよう、渡しました。偽物と本物の違いを知る人なら、助けるかもしれない、と」

「本物の白い鳥の羽根を」

「はい」

 テオが低く言った。

「つまり、彼女は白い鳥を完全には疑っていない。少なくとも、本物を見分ける必要があると考えた」

「戻る道を一つ残した」

 リヴィアが言った。

 修道女は、懐から小さな布包みを出した。

「そして、もう一つ。こちらは、もし“似た方”が来たら渡すようにと」

 俺の呼吸が止まった。

 布包みの中には、白い羽根が一本入っていた。

 軽い。

 あまりにも軽い。

 だが、それを見た瞬間、俺の手は震えた。

「彼女が?」

「はい」

「俺に?」

「あなたの名は、言われませんでした」

 修道女は静かに言った。

「ただ、“顔を見れば分かるはずです”と」

 レイラ。

 お前は、俺が来ると思っていたのか。

 それとも、来てしまうかもしれないと思っていたのか。

 どちらでもいい。

 どちらでも、痛い。



 ──第三十部 了


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