第三十部 白い羽根が、空の部屋に残る話 ① 白い港、アルストラ
陸に着いたら、揺れは終わる。
そう思っていた。
何度目だろうか。
俺は、海に対して同じ種類の希望を抱き、同じ種類の敗北を味わっている。
アルストラの港に降りた瞬間、足元は石だった。
板ではない。
船でもない。
間違いなく陸だった。
だが、俺の中だけがまだ揺れていた。
石畳が揺れている気がする。
白い港の壁が、ゆっくり上下している気がする。
港の鐘の音が、波に乗って遅れて届く気がする。
つまり、陸も信用できない。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
現在の肩書きは、立つ証人。
ただし、支えつき。
たいへん不本意だが、嘘ではない。
◇
アルストラ港は、白かった。
シーロ本島の港より小さい。
だが、白い石壁と青い屋根、細い鐘楼、港を見下ろす修道院の塔が、海の光を受けて静かに立っていた。
魚市場はある。
小舟もある。
干し魚の匂いもする。
だが、声は大きくない。
シーロ本島のような商いの熱ではなく、どこか祈りの湿り気を含んだ港だった。
俺は、桟橋に足を下ろした。
一歩。
歩ける。
二歩。
歩ける。
三歩。
少し揺れる。
四歩目で、リヴィアが横から肩を貸した。
「早い」
「倒れてからでは遅いです」
「倒れるとは限らない」
「倒れそうな顔をしました」
「俺の顔はもう休ませろ」
「顔が先に働くので」
リヴィアの肩は、昨日の水場の事件を思い出させるほど近かった。
もちろん、今は上着を着ている。
外套も整っている。
髪も結ばれている。
いつものリヴィアだ。
船団の娘。
海の指揮官。
だが、俺は知ってしまっている。
水滴の流れる首筋も。
胸元を押さえた手も。
腰布を引き上げるぎこちなさも。
忘れろと言われた。
実行、と答えた。
だが、人間の記憶は命令で動かない。
たいへん困る。
「ロド・カナリ」
「何だ」
「今、余計なことを思い出しましたね」
「思い出していない」
「顔が言いました」
「顔を縛りたい」
「縛るなら包帯があります」
マリノが後ろから言った。
「医療用をそう使うな」
「必要なら使います」
「必要じゃない」
「では、歩いてください」
マリノは、薬箱を持って後ろを歩いている。
テオは港の係員の机へ向かった。
手には、サレーネ船団の正式な紹介状。
煤はもう落ちている。
だが、どこかまだ塩倉庫の火事の匂いが残っている気がした。
「リヴィア殿」
港の係員が、白い鳥の印を見て慌てて立ち上がった。
「サレーネ船団、リヴィア・サレーネです」
リヴィアは短く名乗った。
「七日前から今日にかけて、白い鳥の印を持つ者が島へ入りませんでしたか」
係員の顔が変わった。
明らかだった。
何かを知っている顔。
隠したいのではなく、言うのが怖い顔。
「来ました」
「名は」
係員は帳面をめくった。
指が少し震えている。
「エリオ・バルト」
その名が、また港の空気に落ちた。
死んだはずの水夫の名。
船で息をした名。
港で息をした名。
今度は、島で歩いた名。
リヴィアの横顔が少し冷えた。
「その者は、いつ来ましたか」
「六日前の朝です」
六日前。
俺たちが《白翼》で海を渡っている間だ。
レイラが危ないと分かり、急いで出た。
七日かけて来た。
その間に、敵はもう来ていた。
当然だ。
敵は、俺たちを待って動くわけではない。
「行き先は」
「修道院です。白い鳥の印を見せ、保護者への取次ぎを求めました」
「保護者?」
テオが係員の横から帳面を覗き込む。
「この島では、身分を伏せた滞在者の世話役をそう呼ぶことがあります。修道院の管理下にある客人、寄進者の親族、病養者などです」
「そのエリオ・バルトは、戻りましたか」
リヴィアが問う。
係員は首を横に振った。
「表門からは戻っていません。ただ、同じ日の夕刻、北入り江で小舟が一艘出たという話があります」
「小舟」
「漁師の舟です。正式な港の記録には残っていません」
「誰が乗ったかは」
「分かりません」
リヴィアは一度だけ目を閉じた。
怒鳴らない。
責めない。
ただ、記録する顔になる。
「分かりました。港を閉じる必要はありません。ただし、白い鳥の印を持つ者が再び来た場合は、必ず船団本部印と照合してください」
「はい」
「偽物には、青い細線が混じっている可能性があります」
係員はさらに青ざめた。
「青い、線」
「見たのですか」
「……印の下に、細い線があった気がします。足のようにも見えたので」
「それは足ではありません」
リヴィアの声は冷たかった。
「偽物の印です」
俺は革袋を握った。
中に、偽の白い鳥の木札がある。
軽い札だ。
だが、また重くなった。
──第三十部 了




