第二十九部 七日間の海と、また腰帯を掴む話 ③ 腰帯と、夕食の沈黙
【六日目・早朝】
六日目の朝、俺は早く目が覚めた。
夜明け前。
船室はまだ薄暗い。
マリノは隣のガスパルの様子を見に行っている。
テオは別室で帳面を整理しているはずだ。
俺は寝台に座り、革袋を確認した。
空の硝子管が鳴る。
からん。
陸の音。
戻ってくる音。
その音が、最近、頭の中で長く残るようになった。
喉が渇いていた。
水を飲みたい。
誰かを呼ぶより、自分で行く方が早い。
そう考えた。
この判断がまずかった。
俺はゆっくり立った。
立てる。
六日かけて、立てるようになった。
昨日まで六歩だったが、今朝は何歩いけるか試してみたい。
たぶん、今朝はもう少し歩ける。
その慢心が、いつも事件を起こす。
いつもだ。
俺は通路へ出た。
狭い。
壁に手を当てながら歩く。
水夫たちは、まだ寝ているか、夜番の交代中だ。
通路には、ほとんど人がいない。
水場は通路の奥にある。
水夫たちが交代で使う小さな区画。
桶、水、布、薄い仕切り。
その程度の場所だ。
俺は薄い布の仕切りに手を伸ばした。
水場の入口だと思っていた。
間違いだった。
いや、半分間違いだった。
水場ではあった。
ただし、先客がいた。
布をめくった瞬間、俺は固まった。
「……」
「……ロド・カナリ」
リヴィアだった。
彼女は、上着を脱ぎ、胸元を薄い白布で押さえながら、肩から首筋にかけて濡れた布で拭いていた。
海の上では、真水が貴重だ。
指揮官でも、身支度は人目の少ない時間に済ませるのだろう。
分かる。
分かるが、分かった時にはもう遅かった。
濡れた白布が、鎖骨から胸元にかけて肌に張りついている。
いつもの外套と短剣の下に隠れていた線が、朝の薄明かりの中で、妙に柔らかく見えた。
リヴィアは普段、船を背負っている女だ。
声はまっすぐで、命令は速く、怒る時は静かで、海の上では誰よりも強い。
だが今だけは違った。
髪は少しほどけ、肩に落ちている。
水滴が首筋から鎖骨へ流れている。
普段なら絶対に見せない、女の隙間みたいなものが、そこにあった。
見てはいけない。
見てはいけないと分かった時点で、もう見ている。
たいへん悪い。
非常に悪い。
俺の目は、最近、反省が足りない。
「すまん」
俺は布を戻そうとした。
「下ろしてください」
「下ろす」
「今すぐ」
「今すぐ下ろす」
俺は布を下ろしかけた。
その瞬間、船が大きく揺れた。
波だ。
夜明けの潮替わりだ。
マリノが言っていた。
六日目の早朝は、潮が強い。
俺は知っていた。
知っていたのに、忘れた。
慢心は、こうやって事件になる。
俺は前へ倒れた。
布の仕切りごと。
リヴィアが反射で受け止めようとした。
だが、彼女の足元も濡れていた。
濡れた床板。
濡れた布。
揺れる船。
その三つが、たいへん見事に協力した。
俺は、リヴィアの胸元に顔から突っ込んだ。
「んっ……!」
短い声が、彼女の喉から漏れた。
驚きと息の詰まりが混ざったような声だった。
リヴィアのものとは思えないほど、小さくて、柔らかい声だった。
俺の顔は、濡れた白布越しに、彼女の胸元に沈んでいた。
柔らかい。
温かい。
潮と真水と、少しだけ彼女自身の匂いがした。
近い。
近すぎる。
いや、近いという次元ではない。
事故現場である。
俺は慌てて離れようとした。
しかし、さらに悪いことに、俺の右手は何かを掴んでいた。
腰帯。
また、腰帯だった。
そして今回は、掴んだだけでは済まなかった。
船がもう一度揺れた。
俺の体重が、右手にかかった。
きゅ、と布の締まる音がした。
次の瞬間、リヴィアの腰に巻かれていた船用の腰布が、半分ほど下へずれた。
「……っ!」
リヴィアが息を呑んだ。
胸元を押さえていた片手が、反射的に腰へ落ちる。
だが、片手では足りない。
上着は脱いでいる。
胸元は濡れた白布一枚。
腰布は俺の手のせいで斜めにずれ、片方の太ももが朝の薄明かりにさらされていた。
白い下穿きの端。
そこから伸びる、普段は外套と長靴に隠れている脚の線。
船を踏みしめるための強さと、女の肌の柔らかさが、同じ場所にあった。
見てはいけない。
絶対に見てはいけない。
だが、目に入った。
入ってしまった。
リヴィアの耳が、はっきり赤くなっていく。
頬まで赤い。
いつもの海の姫の顔ではない。
船団を指揮する女でもない。
胸元と腰を同時に押さえ、声を詰まらせた、一人の女の顔だった。
「ロド・カナリ」
リヴィアの声は低かった。
低かったが、少し震えていた。
怒りだけではない。
恥ずかしさも混じっていた。
「待て」
「何を待つのですか」
「弁明を考えている」
「考えながら、まず手を離してください」
「離す」
「いま」
「離す。離すが、離すと俺が落ちる」
「落ちてください」
「即答か」
「今は、落ちてください」
「分かった。落ちる」
「いえ、やはり落ちないでください。床が濡れています」
「どっちだ」
「私にも分かりません!」
その声が、普段のリヴィアより少し高かった。
まずい。
かなりまずい。
俺はようやく腰帯から手を離した。
離した瞬間、体が前へ崩れかける。
リヴィアは胸元と腰を押さえたまま、反射で俺の襟首を掴んだ。
乱暴な救助だった。
ありがたい乱暴さだった。
だが、その動きで腰布がまた少しずれかける。
「見るな!」
「見てない!」
「今、見ました!」
「見えた!」
「同じです!」
「違う! 違うはずだ!」
「違いません!」
俺は天井を見た。
全力で見た。
天井は揺れていた。
今日も揺れていた。
今だけは、ありがたい揺れだった。
リヴィアは片手で胸元の白布を押さえ、もう片方で腰布を引き上げた。
その仕草が、いつもの短剣を抜く動きよりずっとぎこちなかった。
強い女が、自分の体を隠す時だけ見せる、妙に無防備な手つきだった。
見てはいけない。
俺は天井を見続けた。
だが、見ていないからといって、さっきの感触や光景が消えるわけではない。
たいへん困る。
本当に困る。
「ロド・カナリ」
「何だ」
「目を逸らすのも、五番に入りますか」
「入る」
「ニーナ殿のですか」
「ニーナの。あと、たぶん俺の本能の」
「正直なのは、五番違反ではありませんか」
「正直は、量を間違えると違反になる」
「テオ殿に教わった言い方ですね」
「便利だ」
「便利に使いすぎです」
そこでまた船が揺れた。
今度は小さな揺れだった。
だが、俺には十分だった。
俺は壁に手を伸ばした。
腰帯ではない。
今度こそ壁だ。
壁。
壁は安全だ。
女の腰より、はるかに安全だ。
「二度目は、許しません」
「今のは壁だ」
「壁なら許します」
「壁に感謝する日が来るとは思わなかった」
「私もです」
リヴィアは、ようやく上着を掴んだ。
胸元を隠し、腰布を整える。
その間、俺は天井だけを見ていた。
人生で一番、天井を信じた時間だった。
◇
【六日目・夜】
その日の夕食は、奇妙に静かだった。
リヴィアは平気な顔をしていた。
平気すぎて、逆に分かりやすかった。
俺は、何度か言葉を選んだ。
選んだ言葉は、結局、全部不採用にした。
無言が一番安全だった。
無言は安全だが、退屈である。
「ロド」
テオが言った。
「何だ」
「今朝の件だけど」
「忘れろ」
「僕は前段階を見ていない」
「なら聞くな」
「だから、状況証拠だけで言う」
「なお悪い」
「君はどうも、危ない時に腰のあたりへ手が伸びる癖があるようだ」
俺は固まった。
テオは、過去を知らない。
ニーナのことも、カミラのことも、全部は知らない。
だが、船に乗ってからだけでも、リヴィアの腰帯を掴んだ事件はあった。
そして今朝も、またやった。
テオは、そこだけを言っている。
それでも十分、痛い。
「否定したい」
「できるかい」
「難しい」
「正直でよろしい」
リヴィアは無言で食事をしていた。
しかし、テオの方を一度だけ見た。
その目は、明確に、やめろ、と言っていた。
テオは、その目を一秒だけ受け止め、すぐ視線を逸らした。
商人は、引き時を知っている。
知らない時もあるが、今は知っていた。
「ロド・カナリ」
リヴィアが言った。
「何だ」
「今朝のことは」
「忘れる」
「いえ」
「いえ?」
「記録します」
「やはり記録するのか」
「事実だけです」
「事実だけって、どこまで」
「あなたが、水を求めて水場を間違えたところまで」
「かなり優しいな」
「それ以上は、私の記録です」
俺は黙った。
リヴィアも黙った。
テオは黙った。
マリノだけが、何かを理解した顔で頷いた。
「個人記録ですね」
「マリノ」
「はい」
「そこは医者の領分ではありません」
「承知しました」
この船医、本当に怖い。
分かっているのに踏み込まない。
踏み込まないことで、余計に分かっていることが伝わる。
テオが小さく呟いた。
「正確は、優しさより重いね」
「重いのか」
「重いね」
「俺はもう、重いものを持ちすぎだ」
「もう一つ、増えただけだよ」
「増やすな」
その時、マリノがガスパルの処置記録を閉じた。
「ガスパル殿、ようやく安定しました」
「話せるか」
「明日からは、少しだけ」
「アルストラに着いてからだな」
「ええ。七日目の朝には島影が見えるはずです」
明日。
七日目。
長かった海が、ようやく終わる。
次は、アルストラ。
妹がいるかもしれない島。
もういないかもしれない島。
俺は革袋を握った。
空の硝子管が鳴る。
からん。
六番。
戻ってくる。
いつか。
今ではない。
しかし、近い。
「リヴィア」
「はい」
「俺は、明日歩くぞ」
「歩いてください」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「腰帯は」
「掴まないでください」
「努力する」
「努力ではなく」
「実行」
彼女は少しだけ笑った。
久しぶりの笑みだった。
今朝の事件は、まだ消えていない。
しかし、笑える程度には、戻った。
よかった。
よかった、と思うこと自体が、なんとなく恥ずかしかった。
──第二十九部 了




