第二十九部 七日間の海と、また腰帯を掴む話 ② 凪と、ティニス草
【三日目】
三日目の朝、海は嘘のように凪いでいた。
昨日の荒れ方は何だったのかと思うほど、波が低い。
空も青い。
潮の匂いが穏やかだ。
「水、飲めそうですか」
マリノが言った。
「飲めるかは、飲んでみないと分からない」
「鋭い」
「鋭くはない」
「鋭いです。今のは患者の言い分です」
マリノが小さな杯を差し出した。
俺はゆっくり飲んだ。
水が、ちゃんと胃に入る。
戻ってこない。
戻ってこないのは、たぶん三日ぶりだ。
「戻ってこない」
俺は呟いた。
「卒業に近いです」
「桶から?」
「半分くらいは」
「残り半分は」
「これからも友達でいてください」
「友達は選びたい」
「桶は選べません」
「身も蓋もないな」
「桶ですから」
マリノは少し笑った。
珍しい。
この船医、めったに笑わない男だ。
「マリノ」
「はい」
「お前、なんで船医をしている」
「陸の医療所は、患者の選別が必要です」
「選別?」
「金、身分、戦争の側。陸では、誰を診るかを選ぶ場面が多い」
「海では?」
「海では、目の前の一人を診ます。次の患者がいない時間が長い」
「ふつう、医療では患者がいない方がいいんじゃないか」
「いない方がいい時間に、考える余裕ができます」
なるほど、と俺は思った。
マリノは正論しか言わない。
だが、その正論の奥に、小さな倫理が見える時がある。
たぶん、彼も陸で何かあって、海に来たのだろう。
訊かなかった。
訊かないのが、この船医への礼儀だと思った。
昼前、俺は初めて椅子に座らせられた。
寝台ではなく、椅子。
たった、それだけのことが、不思議とうれしかった。
「立てますか」
リヴィアが言った。
「立ちたい」
「では、立たないでください」
「なぜ」
「立ちたい、と言う時はだいたい、まだ立てません」
「鋭い」
「経験です」
「誰の経験だ」
「父の」
俺は黙った。
ダリオ船団長。
あの男は、たぶん船の上で何度も「立ちたい男たち」を止めてきたのだろう。
血は、言葉に出る。
誰かが、似たようなことを言いそうだ。
たぶん、リューリックだ。
◇
【四日目】
四日目、俺は寝台ではなく椅子で目を覚ました。
夜のうちに、椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。
肩が凝っている。
腰も痛い。
しかし、胃は静かだ。
「おはようございます」
リヴィアが入ってきた。
「おはよう」
「椅子で寝るのは、お勧めしません」
「お勧めしないなら、寝台に運んでくれてよかった」
「あなたが頑固だったので」
「俺が?」
「『椅子卒業の祝いに、椅子で寝る』と」
「俺、そんなこと言ったのか」
「言いました」
「眠り薬のせいか」
「正論を、便利に使いすぎです」
俺は苦笑した。
苦笑できる程度には、回復している。
昨日までは、苦笑するだけで脇腹が悲鳴を上げた。
今日は、少し悲鳴が小さい。
悲鳴が小さくなることが回復だとすれば、人間とはなかなか面倒な生き物だ。
その日の昼、俺は初めて椅子から立った。
一歩。
膝が震えた。
倒れかけた。
リヴィアが横から支えた。
「持ちます」
「いや」
「持ちます」
「俺は」
「持ちます」
三回繰り返された。
俺は黙った。
彼女の手は、思ったより冷たかった。
いや、たぶん俺の体が熱を帯びていたのだ。
脇腹ではない。
別のところだ。
気のせいだと思うことにした。
気のせい、と思うほど、気のせいではなくなる。
たいへん不便な仕組みである。
「歩けますか」
「一歩は」
「では一歩」
俺は歩いた。
一歩。
二歩。
三歩で止まった。
「もう一歩」
「気力の限界」
「体力の限界では」
「気力の方が先に来た」
「珍しいですね」
「気力は最近、安売り中だ」
「商人として、買い取れません」
「商人みたいなことを言うな」
「テオ殿のせいです」
部屋の隅で、テオが帳面に何かを書いていた。
書いた音まで、なんとなく満足そうだった。
◇
【五日目】
五日目、俺は甲板に出た。
マリノ立ち会い。
リヴィア同行。
テオは帳面持参。
水夫二人が念のため。
たかが甲板に、護衛が五人もいる。
俺は王族か。
王族だった。
元、だが。
訂正しないでおこう。
「風が強いです」
マリノが言った。
「気持ちいい」
「気持ちいいうちは大丈夫です」
「悪くなったら?」
「教えてください」
「逆にしてくれ」
「逆にすると、強がりますから」
「鋭い」
「経験です」
甲板の端で、俺は革袋を確認した。
空の硝子管。
白い布。
軽い。
いつもより少しだけ、軽く感じた。
俺が、ようやく立てる側に近づいたからかもしれない。
その時、俺はもう一つ思いついた。
甲板に出るなら、剣の素振りを試してみよう。
「マリノ」
「はい」
「素振りを」
「却下」
「即答するな」
「即答に値する案件です」
「半分だけ」
「半分も却下です」
「リヴィア」
「却下」
「お前まで」
「あなたは、半分という言葉を便利に使いすぎです」
「半分は俺の人生哲学だぞ」
「哲学なら陸でやってください」
「哲学は海では使えないのか」
「揺れます」
俺は諦めなかった。
諦めない時の俺は、なかなか面倒だ。
水夫の一人から木剣を借りた。
訓練用の軽いやつだ。
甲板の端で構える。
脇腹が痛い。
肩が固い。
膝が頼りない。
半分まで振ろうとした。
いや、振ろうとしただけだった。
振るより前に、波が来た。
船が傾いた。
俺は転んだ。
「ロド・カナリ」
マリノが追いつく前に、リヴィアが先に俺の腕を掴んだ。
「立てますか」
「立てる」
「立てません」
「立てるって言っただろ」
「顔が立てないと言っています」
「俺の顔は本当に多弁だな」
「正しい弁です」
俺は支えられたまま、木剣を見た。
半分。
半分、というところで、また転んだ。
いつも通りだ。
不思議と、少しだけ安心した。
──第二十九部 了




