第二十九部 七日間の海と、また腰帯を掴む話 ① 桶と、立派な桶
港に着いたら、船酔いは終わると思っていた。
思っていた。
まだ、思っていただけだ。
港に着いた途端、次の船が用意されていた。
《白翼》。
サレーネ船団の小型快速船。
帆が低い。
腹が軽い。
水を叩く音が、船体の中まで響く。
つまり、今までで一番、揺れる船だった。
行き先はアルストラ島。
北東島領。
シーロからの直行で、早くても七日前後。
風と潮が悪ければ、さらに延びる。
俺は港の桟橋でその話を聞いた瞬間、わずかに膝が崩れた。
マリノに支えられた。
「どうしました」
「説明されたら、また船酔いした」
「まだ船には乗っていません」
「だが、海はもう近い」
「鋭敏ですね」
「鋭敏じゃなくていい」
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
現在の肩書きは、運ばれる証人。
これから七日かけて、その肩書きを少しずつ書き換える。
書き換えるのは、俺ではない。
俺の体だ。
俺の意志ではない。
その点が、たいへん不公平だった。
◇
【一日目】
出航は早朝だった。
《白翼》は、サレーネの本港から音もなく滑り出した。
水夫たちの動きが速い。
帆の角度。
舵の切り方。
縄の張り方。
すべてが効率の塊だった。
俺は当然のように、寝台に戻された。
いや、戻されるより先に、自分で戻った。
もう、争う気力もない。
「左の桶です」
マリノが言った。
「もう?」
「予防的配置です」
「俺は治療より予防に強いな」
「強いというより、依存的です」
「依存的って言うな」
「事実です」
扉が開いた。
テオが入ってきた。
いつもの薄い笑み。
手には新しい帳面。
「ロド」
「何だ」
「しばらく、よろしく頼むよ」
「よろしくとは何だ」
「君の容体を毎日記録する」
「商売道具にするな」
「商人だからね」
「お前は本当に、商人と便利を都合よく使い分ける」
「分けるのが商人の本義だ」
俺は天井を見た。
天井は揺れていた。
最初の一日から、もう揺れていた。
七日。
長い。
あまりにも長い。
俺は左の桶を見た。
桶は、いつも通り清潔だった。
不吉なほど清潔だった。
その日、俺は二度、桶に挨拶した。
二度とも、桶は黙って受け止めた。
立派な桶である。
たいへん不本意だが、立派である。
◇
【二日目】
二日目、海が荒れた。
大した嵐ではない、とリヴィアは言った。
「これくらいの揺れは、ありますか?」
「あります」
「これは、ある方?」
「ふつうです」
「ふつうか」
「ふつうです」
「ふつうの基準が怖いな」
風が強く、波が高い。
甲板へは出られない。
四人は俺の医療区画に集まった。
厳密には、ガスパルが寝かされている処置室の隣だ。
ガスパルは目を覚ましていたが、まだ朦朧としていた。
マリノが薬を量り、リヴィアが乗組員の配置を指示し、テオが帳面に何かを書いている。
俺は寝台で天井を見ている。
いつも通りである。
「ロド」
テオが言った。
「何だ」
「ニーナ殿のことを聞いていいかい」
「いきなりだな」
「天井を見ている時間がもったいないからね」
「俺の時間を商売にするな」
「天井に売り場はない」
「あったら困る」
リヴィアが横で言った。
「無関係ではありません」
「何が」
「ニーナ殿のことです。あなたが革袋に空の硝子管を入れている理由は、彼女の管理指示でしょう」
「よく覚えてるな」
「記録しました」
「するなと言ったはずだ」
「したから知っています」
テオが満足そうに帳面を見た。
「商人としても貴重な情報だ」
「だから売るな」
「売らない。記す」
「同じだろ」
「違うよ。記すのは情け、売るのは商売だ」
「商人がそれを分けるか」
「優秀な商人なら分ける」
俺はため息をついた。
ため息で胃が揺れた。
左の桶を見た。
桶はまだ、清潔だった。
俺はちょっと負けた気がした。
「ニーナは」
俺は言った。
「町医者の娘だ。リンデンにいる。空の硝子管に何か入れて持って帰れ、と言われている」
「何を?」
「分からない」
「分からない?」
「向こうも、たぶん決めていない」
「面白いね」
「面白くはない」
「いや、面白い」
テオは帳面に何か書いた。
書かない方が、安心できた気がする。
「ロド」
今度はリヴィアだった。
「何だ」
「ニーナ殿は、あなたの妹君のことを知っていますか」
俺は天井から目を離した。
「知らない」
「あなたが言わなかった」
「ああ」
「なぜ」
「言ったら、ニーナが追ってくるからだ」
リヴィアは、少しだけ目を細めた。
「優しいんですね」
「優しくはない」
「では?」
「臆病なんだ」
俺は天井に戻った。
天井は揺れていた。
たいへん揺れていた。
俺の中も、たいへん揺れていた。
リヴィアも、それ以上は訊かなかった。
マリノが薬を差し出した。
「飲んでください」
「何だこれ」
「眠り薬の弱いやつです」
「眠ったら桶を逃すぞ」
「眠ったら桶も忘れます」
「正論」
「正論です」
俺は飲んだ。
効いた。
たぶん、それが二日目の救いだった。
──第二十九部 了




