第二十八部 白い鳥の印が、嘘を運ぶ話 Another Side:レイラ
アルストラ島の修道院には、古い裏門がある。
白い石壁の北側。
葡萄棚の影。
普段は、薬草を干す女たちと、井戸へ水を汲みに行く子どもたちしか使わない門だ。
レイラは、その裏門の前に立っていた。
外套は粗末な灰色。
髪は布で覆っている。
手には小さな革袋。
中には、紙片が三つ。
青い細線の紙。
円の中の目の印が透けた紙。
そして、古いリュの線が隠れていた紙。
どれも燃やせなかった。
燃やせば安全になるかもしれない。
だが、燃やせば、誰が自分を見ているのか分からなくなる。
怖いものは、持っていた方が怖くない時がある。
そう教えたのは、誰だっただろう。
兄だったか。
リューリックだったか。
それとも、もういない誰かだったか。
「本当に行かれるのですか」
修道女が訊いた。
レイラは頷いた。
「ここにいれば、修道院まで危なくなります」
「サレーネ船団の使いを名乗る者は、まだ門の外に」
「使いではありません」
レイラは言った。
「確認しに来た者です」
「何を」
「私が、紙の通りの人間かどうかを」
修道女は黙った。
島の朝は明るい。
だが、その明るさが今日は怖い。
明るい場所では、隠れる影が少ない。
「北へ?」
「まず、フィヨルドへ」
レイラは答えた。
「そこから、森へ渡ります」
「シルヴァスへ行かれるのですね」
「受け入れてくれるかは分かりません」
「古い誓約があります」
「古すぎます」
「古い誓約ほど、忘れた頃に役に立ちます」
修道女は、小さな包みを差し出した。
乾いたパン。
薬草。
小さな銀貨。
それから、白い鳥の羽根。
「これは?」
「本物のサレーネ船団の印を知っている者に見せなさい。偽物と本物の違いを知る人なら、あなたを助けるかもしれません」
レイラは羽根を受け取った。
軽い。
とても軽い。
だが、軽いものほど後で重くなる。
兄なら、そう言うかもしれない。
いや、兄はもっと雑に言う。
軽いものほど、あとで面倒だ。
たぶん、そんな言い方をする。
レイラは少しだけ笑った。
笑うと、胸が痛んだ。
「どうかされましたか」
「兄を思い出しました」
「会えるといいですね」
レイラは首を横に振った。
「今は、会わない方がいいです」
「なぜ」
「兄は、私を見つけると、きっと止まります」
修道女は何も言わなかった。
「兄は、止まってはいけない人です」
自分で言って、レイラは少しだけ泣きそうになった。
兄はいつも、止まらないふりをしていた。
本当は、何度も止まりたかったはずなのに。
王子として。
兄として。
生き残った者として。
止まれなかった。
だから、自分も今は止まらない。
「行きます」
レイラは言った。
裏門が開く。
外には、小さな荷車が待っていた。
干し魚を運ぶ漁師の荷車だ。
その下に、人ひとりが隠れられる空間がある。
フィヨルド行きの小舟は、島の北の入り江から出る。
表の港ではない。
白い鳥の使いが待つ門でもない。
誰も記録しない、岩場の小さな舟着き場。
レイラは荷車に乗り込もうとした。
その時、修道院の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
来客の鐘ではない。
警告の鐘だ。
修道女の顔が変わった。
「早すぎます」
レイラは振り返った。
遠く、表門の方で声が上がっている。
「サレーネ船団の使いだ! 修道院の保護者に会わせろ!」
男の声。
丁寧だ。
だが、急いでいる。
使者の声ではない。
確認者の声だ。
レイラは荷車の中へ滑り込んだ。
狭い。
干し魚の匂いが強い。
息を潜める。
胸のところで、青い細線の紙が小さく折れる音がした。
修道女が荷布をかける。
暗くなる。
「レイラ様」
小さな声がした。
「はい」
「名を守ってください」
レイラは目を閉じた。
「守ります」
「そして、できれば」
修道女の声が少し震えた。
「いつか、戻ってください」
戻る。
その言葉に、胸が痛んだ。
戻る場所は、まだあるのだろうか。
国はない。
宮殿もない。
父も母もいない。
兄は、どこかで生きているかもしれない。
それだけが、戻るという言葉をかろうじて支えている。
「はい」
レイラは言った。
「いつか」
荷車が動き出した。
車輪が石畳を鳴らす。
表門の声が遠ざかる。
誰かが修道女に何かを問うている。
白い鳥の印を持つ男だろう。
偽物の白い鳥。
青い線のついた鳥。
レイラは、暗い荷台の中で息を潜めた。
兄上。
来ないでください。
今は、まだ。
来れば、あなたまで見られてしまう。
荷車は修道院の裏道を抜け、北の坂へ向かった。
海の匂いが強くなる。
フィヨルドへ向かう小舟が待っている。
その先に、森の国がある。
シルヴァス神聖王国。
古い誓約の国。
人間の王家の名を、まだ紙ではなく記憶で覚えているかもしれない国。
レイラは、革袋の中の紙片を握った。
青い線。
円の中の目。
古いリュ。
全部を持って逃げる。
名前を守るために。
兄に会わないために。
いつか会うために。
荷車は、朝の坂を下っていった。
アルストラの白い修道院が、少しずつ遠ざかる。
そして、表門で偽の使者が彼女の名を探している間に、レイラは島の北へ消えた。
──Another Side 了




