第二十八部 白い鳥の印が、嘘を運ぶ話 ③ 戻ってきた監察官
リヴィアが戻ってきた時、俺はまだ東桟橋にいた。
偽の白い鳥の札。
ニコという少年。
船長。
そして、北東島領行きの紙。
全部を船団員が押さえている。
俺は座らされている。
やはり椅子だ。
港に来てから、椅子との縁が深い。
あまり嬉しくない。
「テオは」
俺が訊くと、リヴィアは答えた。
「生きています。煤だらけですが」
「よかった」
「カロには逃げられました」
「そうか」
「ですが、紙を取りました」
「なら、半分勝ちだ」
「半分?」
「俺の得意分野だ」
リヴィアは少しだけ笑った。
だが、すぐに真顔に戻った。
「それと、塩倉庫の地下に、偽の船団印と紹介状の清書帳がありました」
「清書帳?」
「偽名を、通れる書式に直すための帳面です」
テオが、ちょうどその時戻ってきた。
煤だらけだった。
本当に煤だらけだ。
髪にも煤。
外套にも煤。
商人らしい整った姿が、かなり崩れている。
「テオ」
俺は言った。
「ずいぶん黒くなったな」
「黒帆に寄せてみた」
「余裕があるな」
「余裕はない。紙はある」
テオは油布の包みを掲げた。
「カロには逃げられた。でも、清書帳は取った。白い鳥の偽印、北東島領への紹介状、死亡水夫名義の乗船札、それから偽オーランド商会名義の控え」
「偽オーランド?」
リヴィアが訊いた。
テオの顔から、軽さが少し消えた。
「そう。そこが気に入らない」
「なぜ」
「僕はオーランドの商家で育った。オーランドの商人がどう略すか、どこを省かないか、どういう印の押し方を嫌うかは知っている」
テオは、煤のついた指で紙の一枚を示した。
「これは、オーランドを知っている者の字じゃない。外から見たオーランド商人の真似だ。しかも、逃走先に使うには少し雑すぎる」
「雑?」
「本物のオーランド商流なら、もっときれいに隠す。これは、追う者に『オーランド経由』と思わせるための紙だ」
「なら、実際の逃げ先は?」
俺が訊くと、テオは少しだけ黙った。
「カラベル自由諸島の可能性が高い」
「カラベル」
俺は繰り返した。
シーロの南ではない。
オーランドとも違う。
カランやカラベル方面の海岸線に接続する、もっと遠い、もっと荒い海の名前。
自由諸島。
名前だけは綺麗だが、綺麗なものばかりが流れ着く場所ではない。
「無法者が逃げ込むには合っている」
テオは言った。
「偽造屋、名義貸し、密航、消えた船員。そういうものを処理するには、オーランド本国よりカラベルの方がずっと都合がいい」
「カロはそこへ逃げると?」
「少なくとも、そこへ抜ける紙を持っている」
「北東島領は?」
リヴィアが訊いた。
「接触地点だと思う。狙われている女がいる。そこに近づくために、サレーネ船団の白い鳥を偽った」
テオは、もう一枚の紙を広げた。
そこには短く書かれていた。
北東島領。
修道院。
王家筋、未確定。
女。
二十二前後。
青線、接触済。
俺は息を止めた。
止めたつもりだった。
だが、たぶん止めきれなかった。
リヴィアがこちらを見る。
テオも見る。
港の音が遠くなる。
海鳥。
市場。
鐘。
遠くの波。
俺は、革袋を握った。
からん。
硝子管が鳴る。
戻ってくる。
六番。
戻る。
そのためには、どこへ行くべきだ。
北東島領。
修道院。
王家筋。
女。
二十二前後。
青線。
あまりにも、近すぎる。
「ロド」
テオの声が低くなった。
いつもの商人の薄笑いが消えていた。
「君は、今の紙に心当たりがある」
「……ある、かもしれない」
「かもしれない、で済む顔ではないね」
リヴィアは黙っていた。
黙っているが、目は逸らさない。
俺はしばらく何も言えなかった。
言えば、ロド・カナリではいられなくなる。
言わなくても、もう半分崩れている。
半分。
俺は本当に、半分ばかりだ。
「妹だ」
言った瞬間、港の音が戻った。
いや、戻ったように聞こえた。
海鳥の声がやけに大きい。
遠くで荷車が鳴る。
誰かが魚の値段を叫んでいる。
その全部が、少し違う世界の音みたいだった。
テオは、何も言わなかった。
リヴィアも、何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
さっきまでの沈黙とは違う。
紙の重さではなく、血の重さだった。
「妹」
テオが、ようやく言った。
声は静かだった。
「ロド。今の言葉は、かなり高くつく」
「値段をつけるな」
「つけないと扱えない重さだ」
テオは真顔だった。
「アルストラで狙われている王家筋の女が君の妹だというなら、君自身もただの傭兵ではない。便宜上という言葉では、もう隠しきれない」
リヴィアの表情も変わっていた。
驚きではない。
確認する顔だ。
海の上で、黒帆の角度を見る時と同じ顔。
ただし、今見ているのは船ではない。
俺だ。
「ロド・カナリ」
「何だ」
「今は、あなたの本当の名を聞きません」
少しだけ息がしやすくなった。
「助かる」
「ですが、聞かなければならない時が来ることも分かりました」
「……そうだな」
「命を拾うのと、秘密を盗むのは違います」
リヴィアは、前と同じ言葉を使った。
だが、今度は少し重かった。
「今は盗みません。けれど、あなたが落とした秘密を、私は見ました」
「うまいことを言うな」
「記録します」
「そこはするのか」
「します」
彼女は、紙を見た。
王家筋、未確定。
女。
二十二前後。
「あなたの妹君らしき人が、北東島領で狙われている可能性。これは船団の事件ではなくなりました」
「大きくしないでくれ」
「もう大きいです」
テオが頷いた。
「同意だ。しかも、まだ名前を出していないのに大きい」
「お前まで」
「ロド、ここは誤魔化すと沈む。少なくとも僕たちは、今から扱う紙の重さを間違えられない」
その言い方は、商人ではなく、紙を見る者のものだった。
俺は黙った。
黙るしかなかった。
「では、整理します」
リヴィアが言った。
「カロは、北東島領に偽の白い鳥の印を送り込んだ。目的は、あなたの妹君らしき人物へ接触すること。カロ自身は、おそらくカラベル自由諸島方面へ逃げる紙を持っている。つまり、接触役と逃走役が分かれている」
「黒帆は手」
俺は言った。
「目ではない」
テオが続けた。
「そしてカロは、紙を通す者。紙の向こうの人そのものではない」
リヴィアが頷いた。
「なら、今追うべきはカロではありません」
「逃がすのか」
「逃がしません。父と港警備に任せます。カラベル方面なら、テオ殿の知識も必要になります。ですが」
「まず、北東島領か」
「はい」
リヴィアは即答した。
「そこで、あなたの妹君らしき人が本当にいたのかを確かめます。会えるかどうかは別です」
「会えない前提か」
「会えると思って進むと、見落とします」
テオが頷いた。
「商人としても同意だ。まず痕跡。次に行き先。感情は、その後で高くつく」
「値段をつけるな」
「今はつけない」
リヴィアは俺に手を差し出した。
立たせるためではない。
紙を渡すためだった。
偽の白い鳥の木札。
青い細線。
北東島領。
王家筋、未確定。
「持ちますか」
俺はその札を見た。
持てば、重い。
持たなければ、もっと重い。
「持つ」
受け取った。
木札は軽かった。
軽いのに、手のひらが沈むようだった。
「ロド」
テオが言った。
「君、本当に大丈夫かい」
「大丈夫じゃない」
正直に言った。
リヴィアが少し目を細める。
マリノがいないのに、診断された気がした。
「でも、行く」
「返事は?」
リヴィアが言った。
俺は彼女を見た。
それから、手の中の偽札を見た。
「実行」
その言葉は、海風に少しだけ揺れた。
──第二十八部 了




