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第二十八部 白い鳥の印が、嘘を運ぶ話 ② 偽の白い鳥と、塩倉庫


 北東島領行きの船は、東桟橋の奥にいた。

 小型連絡船ルメリアは止められていたが、港にはもう一艘、小さな私船があった。

 白い鳥の印をつけている。

 サレーネ船団の印に似ている。

 だが、少し違う。

 鳥の翼の角度が浅い。

 脚が一本多く見える。

 いや、脚ではない。

 青い細線だ。

 鳥の足元に、細い青い線が一本だけ引かれている。

「偽物か」

 俺が言うと、リヴィアは頷いた。

「うちの印ではありません」

「似せてるな」

「似せています。港の外なら通る程度には」

「鳥、青、目」

 俺は小さく言った。

「何ですか」

「いや」

「今、何か言いました」

「船酔いだ」

「港です」

「港酔いだ」

「便利に増やさないでください」

 リヴィアは私船へ向かった。

 船の名は《白鴎》。

 船長は若い男だった。

 顔色が悪い。

 明らかに、何かを知っている顔だ。

「この船は、どこへ」

 リヴィアが訊いた。

「北東島領へ。積荷は布と紙箱です」

「乗客は」

「いません」

「名簿を」

「船団印があります」

「名簿を」

 リヴィアの声が少し低くなった。

 船長は震えながら名簿を出した。

 リヴィアが開く。

 俺は横から見ようとして、背伸びしかけた。

 支えていた水夫に止められた。

「見えない」

「見せます」

 リヴィアが名簿を少し下げた。

 そこには、三人の名があった。

 船長。

 助手。

 そして、荷守り。

 エリオ・バルト。

「またか」

 俺は言った。

「またです」

 リヴィアの声は冷たかった。

「この名の者はどこに」

 船長は口を開いた。

 だが、その前に船倉の方で音がした。

 箱が倒れる音。

 リヴィアが走る。

 俺も行こうとした。

 行けない。

 運ばれる。

 たいへん遅い。

 船倉の入口で、リヴィアが短剣を抜いた。

「出てきなさい」

 中から出てきたのは、少年だった。

 十四、五歳くらい。

 港の荷運びの服。

 目が怯えている。

 手には白い鳥の木札。

 偽物の印だ。

「エリオ・バルトか」

 リヴィアが訊いた。

 少年は首を振った。

「違います」

「なら、なぜその札を持っている」

「持っていろって言われた」

「誰に」

「塩倉庫の人」

 テオの方だ。

 俺はリヴィアを見た。

 彼女も同じことを考えたらしい。

「名前は」

「ニコ」

 少年は答えた。

「本当の名か」

 俺が訊くと、少年は少しだけ怒った顔をした。

「本当だ」

「そうか。悪い」

 謝ると、少年は戸惑った。

 俺は少しだけ笑った。

「本当の名なら、ちゃんと持ってろ。誰かの札で隠すな」

 少年は木札を握った。

 リヴィアが俺を見る。

 何だ。

 また顔か。

「何だ」

「いえ」

「記録するなよ」

「今のは、します」

「なぜ」

「必要だからです」

 少年は白い鳥の木札を差し出した。

 リヴィアが受け取る。

 裏に文字があった。

 北東島領。

 修道院。

 王家筋、未確定。

 接触者、エリオ名義。

 俺の胸の奥が冷たくなった。

 リヴィアは、それを見た。

 見てしまった。

「ロド・カナリ」

「何だ」

「あなたの顔が、今度は完全に言いました」

「何を」

「この紙の女を知っている、と」

 逃げられない。

 逃げられないが、言えない。

 俺は革袋を握った。

 からん、と硝子管が鳴る。

 ニーナの白い布。

 戻ってくる。

 だが、今は戻る先がどこなのか分からない。

「リヴィア」

「はい」

「今は、聞くな」

 リヴィアは黙った。

 長い沈黙ではなかった。

 だが、重かった。

「分かりました」

「助かる」

「ただし、記録します」

「そこは助からない」

「あとで聞きます」

「分かった」

「返事は」

 ここでそれを言うのか。

 本当に、この女は容赦がない。

「実行」

 リヴィアは頷いた。

 その時、東市場の方で鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 港の警戒鐘ではない。

 火事の鐘だ。

 塩倉庫の方角から、煙が上がっていた。

「テオ」

 俺は言った。

 リヴィアの顔が変わる。

「水夫二人、ロドをここに」

「行く」

「駄目です」

「テオがいる」

「あなたが行っても走れません」

「運べ」

「運ぶ者が危険です」

「それでも」

 リヴィアは俺を見た。

 目が強い。

「ロド・カナリ」

「何だ」

「ここで北東島領の紙を守ってください。テオ殿は、商人です。逃げる時は逃げます」

「信用してるんだか、してないんだか分からないな」

「両方です」

 テオなら、確かに逃げる。

 逃げながら紙も持つ。

 たぶん。

 俺は歯を食いしばった。

 行きたい。

 だが、行けない。

 行けないことが、こんなに腹立たしいとは。

「痛い」

 俺は言った。

 リヴィアが少しだけ目を細めた。

「どこが」

「脚じゃない。腹でもない。たぶん、役に立たないところだ」

「それは」

「誇りかもしれない」

「では、後で診ます」

「マリノみたいなことを言うな」

「彼は優秀です」

 リヴィアは短く笑い、すぐに走った。

 濃い緑の外套が港の白い光の中を抜けていく。

 俺は追えない。

 追えないまま、偽の白い鳥の札を見た。

 嘘の白鳥。

 青い細線。

 北東島領。

 王家筋、未確定。

 その紙の向こうに、妹がいるかもしれない。

 いや。

 いる。

 俺は、もうそう思っていた。



 ◇



 塩倉庫では、テオが煙の中で笑っていた。

 後で聞いた話だ。

 だから、これは俺が見た場面ではない。

 だが、リヴィアが見た。

 リヴィアが語った。

 だから、記録としては十分だ。

 テオは塩倉庫の地下へ入っていた。

 船団員二人と一緒に。

 中には、紙があった。

 大量の紙。

 船団印の写し。

 港湾通行札。

 死亡扱いの水夫名。

 北東島領への紹介状。

 そして、古いリュカリオン語の名を清書するための見本。

 カロ・ディーノはそこにいた。

 痩せた男。

 年は五十前後。

 白い手袋。

 紙を扱う者の手。

 テオが入った時、カロは笑ったという。

「グラント商会の若旦那が、紙を盗みに来るとは」

「盗まないよ」

 テオは答えた。

「照合しに来た」

「商人らしい」

「君ほどではない」

 カロは机の上の紙束に手を置いた。

「名は、汚れる。私は、それを通れる形に整えるだけだ」

「人を荷にして?」

「荷になれない人間は、国境を越えられない」

「便利な理屈だね」

「商人なら分かるはずだ」

「分かるよ」

 テオは笑った。

「だから嫌いだ」

 その時、倉庫に火が放たれた。

 カロ自身が、机の下の油壺を蹴ったらしい。

 黒い松脂の匂いが立った。

 リューリックが灰橋倉で嗅いだものと同じ匂い。

 陸でも、海でも、港でも、同じ匂いがする。

 カロは紙を焼こうとした。

 だが、テオはそれを読んでいた。

 商人は紙を燃やす者の手つきも見る。

 火が広がる前に、船団員が砂を投げた。

 テオは机の上の紙束を油布で包んだ。

 カロは逃げた。

 地下のさらに奥、古い排水路へ。

 リヴィアが駆けつけた時、火は小さくなっていたが、カロはもういなかった。

 代わりに、テオは紙を持っていた。

「逃げられたのか」

 リヴィアが言った。

「逃げられたね」

「なぜ笑っているのです」

「逃げる方向が分かったから」

 テオは煤で汚れた顔で、いつもの薄い笑みを浮かべた。

「カロは北へ逃げた。港の排水路は、北の古灯台へ繋がっている」

「そこから船に?」

「小舟なら出せる」

「北東島領へ?」

「違う」

 テオは紙を一枚出した。

 そこには、粗い海図があった。

 シーロ。

 アルストラ。

 フィヨルド諸島。

 そして、その先に、細い森の印。

「この海図、古い。北西へ抜ける道がある」

「フィヨルド」

 リヴィアが言った。

「そして、その先は」

 テオは言った。

「シルヴァス方面だ」

 リヴィアは、その意味をまだ知らない。

 テオも、全部は知らない。

 だが、紙はもう次の場所を指していた。

 北東島領だけではない。

 フィヨルド諸島。

 シルヴァス神聖王国。

 森の国。

 古い血を隠すには、海より深い森がある。



 ──第二十八部 了


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