第二十八部 白い鳥の印が、嘘を運ぶ話 ① 生きていた水夫
港に着いたら、船酔いは終わると思っていた。
間違いだった。
船酔いは、海の上だけのものではない。
体の中に残る。
足元が石になっても、胃だけはまだ波を覚えている。
頭も、少し遅れて揺れる。
そして何より、事件が揺れる。
船から港へ。
港から記録庫へ。
記録庫から桟橋へ。
桟橋から、今度は島へ。
俺はまだまともに歩けない。
なのに、話だけは走っている。
たいへん不公平である。
俺の名は、レオン。
便宜上は、ロド・カナリ。
二十八歳。元王子。現傭兵。職業、負傷予定者。
趣味、惚れること。
専門、死にかけて誰かに縫い直されること。
現在の肩書きは、運ばれる証人。
そろそろ誰かに、証人にも休憩が必要だと教えてほしい。
ただし、教える相手がリヴィアだと、記録される。
マリノだと、診断される。
テオだと、値段をつけられる。
世の中に、逃げ場がない。
◇
ガスパル・ローニは、生きていた。
肩に矢を受けたが、マリノの処置は早かった。
毒はなかった。
ただし、矢尻には黒い松脂が薄く塗られていた。
毒ではなく、印。
そうテオは言った。
「殺すためじゃなく、誰が撃ったか分からせるためか」
俺が訊くと、テオは頷いた。
「あるいは、誰が撃てるかを見せるためだね」
「嫌な名刺だな」
「商人としては、かなり趣味が悪い」
「お前に言われると相当だ」
「褒め言葉として受け取るよ」
「受け取るな」
ガスパルは、サレーネ船団本部の奥にある小さな処置室に寝かされていた。
白い石壁。
細い窓。
潮を避けるためか、棚には薬瓶ではなく、油布に包まれた包帯と乾いた布が多い。
港の処置室だ。
船とは違うが、やはり海の匂いがする。
俺は椅子に座らされていた。
まただ。
椅子に座ることそのものは悪くない。
ただ、座らされる、というところが問題だ。
「立たないでください」
マリノが言った。
「まだ何もしてない」
「顔が立とうとしました」
「俺の顔は、本当に忙しいな」
「はい」
肯定するな。
リヴィアはガスパルの寝台の横に立っていた。
ダリオ船団長は部屋の奥。
テオは紙束を広げている。
マリノは矢傷を診ている。
俺は椅子。
扱いとしては、半分患者、半分証人、三割荷物である。
足してはいけない。
「ガスパル」
リヴィアが言った。
「話せますか」
ガスパルは荒く息をした。
顔色は悪い。
だが、目はまだ死んでいない。
「……リヴィア様」
「三年前、何がありました」
ガスパルは目を閉じた。
答えたくない顔だ。
だが、答えないために逃げた男の顔ではない。
ここへ来たのは、たぶん話すためだ。
俺は少しだけ身を乗り出そうとした。
マリノに肩を押さえられた。
「だから、何もしてない」
「する前に止めています」
「有能すぎる」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
ガスパルがかすかに笑った。
笑ったせいで、痛んだらしい。
顔をしかめる。
「痛いなら、言え」
俺は言った。
ガスパルがこちらを見る。
「お前が言うのか」
「最近、言えるようになった」
「変な傭兵だな」
「俺もそう思う」
リヴィアが、俺を一瞬だけ見た。
怒ってはいない。
むしろ、少しだけ助かった顔だった。
ガスパルの緊張が、わずかに緩んだ。
なら、悪くない。
ガスパルは息を整え、話し始めた。
「エリオは、落ちていません」
部屋の空気が静まった。
「三年前の夜、エリオは甲板から消えた。だが、海に落ちたんじゃない。小舟に降ろされた」
「誰が命じた」
ダリオの声は低かった。
ガスパルは目を逸らした。
「当時の航海書記、カロ・ディーノです」
リヴィアの指が、わずかに動いた。
テオが紙にその名を書き込む。
「書記が、なぜ水夫を降ろす」
「エリオが見たからです」
「何を」
「名簿の二重書きです」
俺は眉を寄せた。
「二重書き?」
テオが説明するように言った。
「同じ航海に、表の名簿と裏の名簿があるということだろうね。表は港に出す。裏は、実際に乗せた者を記す」
ガスパルが頷いた。
「荷の中に、人がいました」
リヴィアの顔が変わった。
「人?」
「北から来た子どもが二人。女が一人。名はなかった。紙には、乾燥魚と布としか書かれていなかった」
部屋の中が、一段冷えた。
人を荷として運ぶ。
名前を消して。
別の名をつけるために。
俺は革袋を握った。
死者名簿が底にある。
青銅の札もある。
「エリオは、それを見た」
ガスパルは言った。
「そして、騒いだ。あの子は若かった。黙っていられなかった」
「それで、死んだことにされたのか」
俺が言うと、ガスパルは唇を噛んだ。
「殺す予定だったのかもしれない。だが、カロは殺さなかった。『死んだ名は高く売れる』と言った」
「死んだ名は」
リヴィアが低く繰り返した。
「港で息をする」
テオが続けた。
ガスパルは震えた。
「あれは、カロの言葉です。死んだ者の名は、誰にも文句を言わない。海で消えた名なら、なおさらだと」
ダリオが拳を握った。
骨が鳴る音がした。
「俺の船で」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
だから怖い。
「俺の船で、人を荷にし、水夫の名を売ったのか」
ガスパルは答えなかった。
答えないことが答えだった。
「ガスパル」
リヴィアが言った。
「あなたは、その時どうしたのです」
ガスパルは、今度こそ目を閉じた。
「黙りました」
短い言葉だった。
「俺は黙った。エリオを助けられなかった。カロに言われた。話せば、船団ごと潰すと。密航、人売り、偽名簿。全部サレーネの罪にできると」
「それで三年、黙っていたのか」
ダリオが言った。
「はい」
「なぜ今になって動いた」
「エリオの名が戻ってきたからです」
ガスパルは、リヴィアの手にある油紙を見た。
「エリオの名で、また誰かを運ぶ気だと知った。しかも、今度は王家筋だと」
王家筋。
その言葉が部屋に落ちた瞬間、誰もが一瞬だけこちらを見た気がした。
いや、気のせいではない。
テオは見た。
リヴィアも見た。
ダリオも、たぶん見た。
マリノは傷を見ていた。
ありがたい。
船医は本当にありがたい。
俺は顔を動かさないようにした。
顔が忙しいと言われすぎて、逆に意識しすぎる。
「王家筋とは、誰のことです」
リヴィアが訊いた。
ガスパルは首を横に振った。
「知らない。紙には、島、女、二十二前後、青線接触済、と」
リヴィアは俺を見た。
俺は見返した。
何も言わない。
言えない。
言えば、ロド・カナリではいられなくなる。
「それで、北東島領へ?」
テオが訊いた。
「はい。エリオの名で乗る者がいる。あるいは、エリオの名を持って会いに行く者がいる。サレーネの白い鳥の印を使えば、アルストラの修道院へ近づける」
「白い鳥の印が、嘘を運ぶ」
リヴィアが言った。
静かな声だった。
だが、その静けさの底に、明らかな怒りがあった。
「うちの印を」
ガスパルは頷いた。
「だから、止めたかった。だが、カロの手はもう港にある。黒帆も、港の荷受けも、記録庫も、全部どこかで繋がっている。俺一人では」
「だから記録を抜いた」
「はい」
「逃げるためではなく?」
「……最初は逃げるつもりでした」
ガスパルは正直に言った。
「でも、エリオの札を見たら、逃げられなくなった」
リヴィアはしばらく黙った。
それから、短く言った。
「遅いです」
「はい」
「でも、話しました」
「はい」
「なら、まだ使えます」
ガスパルが目を開けた。
使える。
それは冷たい言葉に聞こえた。
だが、この場では救いでもあった。
死なせない。
証人として使う。
名前を取り返すために。
リヴィアの倫理は、やはり海の上と同じだった。
沈めない。
止める。
港で捕る。
「カロ・ディーノはどこです」
テオが訊いた。
「表向きは港湾倉庫の帳簿係です。だが、今朝、もう姿を消しているはずです」
「行き先は」
「北東島領行きの紙を出したなら、本人は別の船には乗らない。見送る側にいる。見送って、結果を紙で受ける」
「紙の向こうの人か」
俺が言うと、ガスパルは首を横に振った。
「カロは紙の向こうの人ではない。紙の手前で、紙をきれいにする男です」
「紙をきれいにする」
「汚れた名前を、通れる名前にする。死んだ名を、生きた名簿に戻す。そういう男です」
テオの顔が変わった。
「偽造屋というより、清書屋だね」
「清書屋?」
「汚い嘘を、正しい書式に直す人間だ。厄介だよ。そういう人間が一番、紙を強くする」
「どこにいる」
リヴィアが言った。
ガスパルはかすかに息を吐いた。
「古い塩倉庫。東市場の裏です。潮で紙が傷むから、誰も記録を置かない場所だと思われている。でも、地下は乾いている」
ダリオが扉へ向かって歩き出した。
「人を出す」
「父上」
リヴィアが止めた。
「私が行きます」
「お前は北東島領行きの船を押さえろ」
「それではカロが逃げます」
「だから俺が行く」
「父上が動けば、港が騒ぎます」
「もう騒いでいる」
「だからこそ、船団長は港を押さえてください」
父娘が睨み合った。
空気が硬くなる。
俺は椅子の上で少し身を縮めた。
怖い。
親子の喧嘩は、野盗より怖い時がある。
テオが咳払いした。
「分けよう」
全員がテオを見る。
商人は、こういう時に割って入るのがうまい。
しかも、自分の利益がありそうな顔をしない。
たぶん、利益はある。
「船団長は港を閉じる。リヴィア殿は北東島領行きの船を止める。塩倉庫には、僕が行く」
「お前が?」
俺は言った。
「商人は倉庫に入る口実がある」
「危ないぞ」
「君に言われると、とても新鮮だね」
「俺も言ってから思った」
リヴィアが首を振った。
「テオ殿一人では駄目です」
「もちろん。船団から二人借りる。それと」
テオは俺を見た。
嫌な予感がした。
「ロドも借りたい」
「俺?」
「君はカロの紙を見るべきだ」
「俺は歩けない」
「運べる」
「便利に使うな」
リヴィアが即答した。
「却下です」
少し意外だった。
テオも眉を上げた。
「なぜ?」
「ロド・カナリは北東島領の紙に反応しました。本人は隠していますが、何か知っています」
鋭い。
非常に鋭い。
「彼は北東島領行きの船を見るべきです」
「リヴィア」
俺は言った。
「何です」
「俺は何も」
「顔が言いました」
「また顔か」
「はい」
テオが笑った。
「ロド、諦めた方がいい。君の顔は、もう半分くらい告白している」
「半分ならまだ守ってる」
「何を?」
「いろいろだ」
ダリオが低く言った。
「なら、こうだ。リヴィアは怪我人を連れて北東島領行きの船へ。グラントの若旦那は塩倉庫へ。俺は港を閉じる。マリノはガスパルを生かせ」
「私は医者ですので、それが一番まともです」
マリノが言った。
「ただし、ロド殿を運ぶ人員をつけてください。途中で落とすと、また仕事が増えます」
「俺は荷物か」
「負傷者です」
「最近、その二つの差が薄い」
「扱いは似ています」
否定してほしかった。
──第二十八部 了




