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第二十七部 死んだ名が、港で息をする話 Another Side:レイラ

 アルストラ島の朝は、風が先に来る。

 海の匂いを含んだ風が、白い窓枠を鳴らし、薄い布を揺らす。

 レイラは、その音で目を覚ました。

 眠りは浅かった。

 昨夜、また同じ夢を見た。

 兄の背中。

 遠い宮殿。

 燃える旗。

 そして、誰かが紙をめくる音。

 夢の中で紙をめくられると、胸が冷える。

 名前を呼ばれるより怖い。

 紙に書かれる名前は、逃げられないからだ。

 机の上には、昨日届いた小さな紙片があった。

 青い細線。

 差出人はない。

 ただ、短く書いてある。

 あなたの名を、正しく戻せる者がいる。

 戻す。

 その言葉が、嫌だった。

 レイラは、自分の名を失くしたつもりはない。

 隠しているだけだ。

 隠しているのと、失くしているのは違う。

 だが、紙を書く者は、その違いを分かっていない。

 あるいは、分かったうえで踏んでくる。

 扉が叩かれた。

「どうぞ」

 入ってきたのは、島の修道女だった。

 年配で、静かな目をしている。

「レイラ様、港から使いが」

「またですか」

「はい。今度は、サレーネ船団の名を名乗っています」

 レイラは顔を上げた。

「サレーネ?」

「シーロの大きな船団です。白い鳥の印の」

 鳥。

 レイラは机の紙片を見た。

 青い細線。

 胸の奥で、小さな違和感が鳴った。

「使いの名は」

「エリオ・バルト、と」

 知らない名だった。

 だが、なぜか紙片の青い線が、少し濃く見えた気がした。

「会いますか」

 修道女が訊いた。

 レイラはすぐには答えなかった。

 窓の外を見る。

 港へ下る道。

 白い石の階段。

 海へ向かう小舟。

 そして、その向こうに、まだ見えない大陸。

 兄がいるかもしれない方角。

 レイラは、紙片を指で押さえた。

 あなたの名を、正しく戻せる者がいる。

 正しく。

 戻す。

 その言葉は、優しい顔をした刃だ。

「会いません」

 レイラは言った。

「ですが、追い返さないでください」

「では」

「待たせてください。日が高くなるまで」

 修道女は静かに頷いた。

「分かりました」

 扉が閉まる。

 レイラは一人になった。

 机の上の紙片を裏返す。

 裏には、昨日はなかったはずの小さな印があった。

 いや、昨日もあったのに気づかなかったのか。

 円。

 その中に、小さな目。

 レイラは息を止めた。

 風が窓を鳴らす。

 遠くで鳥が鳴いた。

 白い鳥ではない。

 黒い鳥でもない。

 ただ、島の朝を知らせる鳥だ。

 レイラは紙片を灯火へ近づけた。

 燃やすためではない。

 透かして見るためだ。

 薄い紙の中に、もう一本、青い線が隠れていた。

 線は、海路図のように折れている。

 シーロ。

 白鳥礁。

 北東島領。

 そして、最後に小さく、古い文字。

 リュ。

 レイラの指が震えた。

 兄の名ではない。

 国の名だ。

 しかし、彼女にとっては、ほとんど同じ痛みだった。

「お兄様」

 声に出した。

 返事はない。

 当然だ。

 だが、その時、窓の外で誰かが足を止めた。

 レイラは紙片を伏せた。

 修道院の庭に、見知らぬ男が立っている。

 港の者ではない。

 島の者でもない。

 白い鳥の小さな印を胸につけている。

 男は、こちらを見上げていた。

 目が合う。

 男は笑った。

 丁寧な笑みだった。

 そして、深く頭を下げた。

 レイラは、その笑みを見て思った。

 あれは、使者の顔ではない。

 持ち主を確認しに来た者の顔だ。

 机の上で、青い細線の紙が朝風に揺れた。

 レイラは、静かに窓を閉めた。

 鍵をかける。

 それから、紙片を袖の中へ隠した。

 名を正しく戻す。

 そう書いた者がいる。

 ならば、自分はまず、名を守らなければならない。

 レイラは椅子から立ち上がった。

 修道院の鐘が、朝を告げる。

 島の一日が始まる。

 そして、紙の向こうの目が、少しずつ近づいていた。



──Another Side 了


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