第二十七部 死んだ名が、港で息をする話 ④ 死んだ名の出港
港へ出ると、空は明るかった。
明るすぎるほどだった。
市場の声。
魚の匂い。
港税を払う商人の列。
小舟の揺れ。
その全部が、急に遠く見えた。
リヴィアは走る。
テオも走る。
マリノは走らない。
俺を運ぶ水夫たちも走らない。
走らないというより、走れない。
俺が荷だからだ。
「俺を置いていけ」
俺は言った。
「却下」
リヴィアが前を向いたまま言った。
「早いな」
「あなたを置くと、別の問題が起きます」
「俺は問題扱いか」
「証人です」
テオが横から言う。
「問題の証人だね」
「省略するな」
東桟橋が見えた。
小型連絡船。
白い船体。
古い帆。
船尾に小さな鳥の印。
出航準備中だった。
だが、桟橋にはすでに人が少ない。
乗客は乗り込んでいる。
荷も積まれている。
あと少しで離れる。
「ルメリア、出すな!」
リヴィアの声が港を裂いた。
船員たちが振り返る。
船長らしき男が驚いた顔をする。
「リヴィア様?」
「名簿を!」
テオが桟橋の係員から名簿を奪うように受け取った。
いや、正確には丁寧に奪った。
商人の技術だ。
「エリオ・バルト」
テオが読んだ。
「乗船済み」
リヴィアが船へ駆け上がる。
「全員、甲板へ!」
声が響く。
船内から数人が出てくる。
老人。
女。
少年。
商人風の男。
水夫二人。
だが、エリオ・バルトはいない。
「船内を確認!」
リヴィアが叫ぶ。
その時、俺は桟橋の端で、白い帆布の下を見た。
荷の間。
紙箱。
乾燥魚。
布。
その影に、足が見えた。
逃げる足ではない。
隠れる足でもない。
待っている足。
誰かに見つけられるのを待っているような足。
「リヴィア!」
俺は叫んだ。
「帆布の下!」
男が飛び出した。
年は五十前後。
髭。
日焼けした肌。
水夫の体つき。
手には古い認識札。
リヴィアが息を呑んだ。
「ガスパル」
男は逃げなかった。
いや、逃げられない顔だった。
彼は手にした札を高く掲げた。
「近づくな!」
港が静まる。
リヴィアが一歩止まる。
「ガスパル・ローニ」
彼女の声は低い。
「その札は、エリオのものですね」
「この子は死んでいない」
ガスパルが言った。
その声は震えていた。
「死んでいない。死なせたのは記録だ。俺たちが書いた紙だ」
テオの目が鋭くなった。
「どういう意味だ」
ガスパルは笑った。
笑っているのに、泣きそうな顔だった。
「エリオは落ちていない。あの夜、降ろされたんだ。船から。記録の上では死んだことにして」
リヴィアの顔から血の気が引いた。
「誰が」
「俺たちだ」
「誰の命令で」
ガスパルは答えなかった。
代わりに、認識札を握る。
「港で息をする死んだ名。そう言ったな。あれは脅しじゃない。警告だ。エリオの名は、もう港に戻っている。戻ってきてしまった」
「エリオは生きているのですか」
リヴィアの声が震えた。
ほんの少しだけ。
ガスパルは目を逸らした。
「生きていた」
「今は」
「分からない」
船上の空気が張り詰める。
俺は支えられたまま、ガスパルを見た。
彼の足元。
足が前へ出ていない。
逃げたい男の足ではない。
死にに来た男の足でもない。
何かを渡しに来た男の足だ。
「リヴィア」
俺は言った。
「何です」
「その男、逃げようとしてない」
ガスパルが俺を見た。
「誰だ、お前」
「便宜上、傭兵だ」
「便宜上?」
「今は運ばれる証人だ」
「何だそれは」
「俺も知りたい」
テオが小声で言った。
「ロド、状況が台無しになりかけている」
「すまん」
だが、ガスパルの目が少しだけ緩んだ。
緩んだなら、喋る。
たぶん。
「ガスパル」
リヴィアが言った。
「あなたは何をしに来たのです」
ガスパルは認識札を見た。
そして、懐から小さな油紙を出した。
「これを渡すためだ」
テオが受け取ろうとする。
ガスパルは首を振った。
「リヴィア様に」
リヴィアが手を伸ばす。
ガスパルは油紙を渡した。
その瞬間だった。
桟橋の向こうから、矢が飛んだ。
狙いはガスパル。
リヴィアが動くより早く、俺は叫んでいた。
「伏せろ!」
ガスパルは反応が遅れた。
だが、リヴィアが彼の肩を掴んで引いた。
矢はガスパルの首ではなく、肩をかすめた。
血が飛ぶ。
「狙撃!」
港が騒然となる。
リヴィアがガスパルを甲板へ押し倒す。
テオが油紙を拾う。
マリノが走る。
俺も動こうとした。
当然、動けなかった。
水夫に支えられたまま、前へ出ようとして、足がもつれた。
倒れかける。
誰かが後ろから俺を支えた。
ダリオだった。
「動くな、怪我人」
「来てたのか」
「本部の下で火薬の匂いがした。狙撃と同じ筋だ」
「説明が怖いな」
「怖がれ。正しい」
ダリオは港の建物の屋根を見た。
「西倉庫の屋根だ。二人行け!」
船団員が走る。
リヴィアはガスパルの傷を押さえていた。
「マリノ!」
「来ています」
マリノが膝をつく。
ガスパルの肩を診る。
「浅い。ですが毒の確認を」
「毒?」
俺が言うと、マリノは矢尻を見た。
「可能性です」
ガスパルは歯を食いしばりながら言った。
「開けろ……油紙を……早く」
リヴィアが油紙を見た。
テオが慎重に開く。
中には、小さな紙片が三枚。
一枚目。
古い船団合図の写し。
二枚目。
エリオ・バルトの名と、移送先らしき符号。
三枚目。
島。
鳥。
青。
目。
俺はその四つを見た瞬間、なぜか背中が冷えた。
知らないはずの符号だ。
でも、見てはいけないものを見た気がした。
テオが低く言った。
「これは」
ガスパルがかすれた声で言った。
「北東島領へ……紙が行く……王家筋を、確かめる紙だ……」
王家筋。
俺は息を止めた。
リヴィアがこちらを見る。
テオも見る。
ダリオも、わずかに目を細めた。
やばい。
顔に出た。
たぶん出た。
「ロド」
テオが静かに言った。
「今は、倒れないでくれ」
「注文が難しい」
「かなり重要だ」
ガスパルは、俺を見ていなかった。
リヴィアを見ていた。
「エリオを……死なせた紙が……今度は、島の女を殺す……いや、生かして使う……」
「島の女?」
リヴィアが問う。
ガスパルの声はさらに細くなる。
「青い線が、もう触れた……目は、まだ確かめていない……早く……」
そこで、彼の意識が落ちた。
マリノがすぐに処置へ入る。
「生きています」
リヴィアは油紙を握っていた。
今度は紙を傷つけないようにではなく、震えを抑えるように。
俺は、胸の奥で何かが鳴るのを感じた。
空の硝子管ではない。
もっと古い音だ。
リュカリオン。
王家筋。
北東島領。
島の女。
それが誰なのか、まだ口には出せない。
出せば、終わる気がした。
だが、俺の中では、もうひとつの名前が浮かんでいた。
レイラ。
俺は手すりを握った。
港は明るい。
海も明るい。
それなのに、視界の端が暗くなる。
「ロド・カナリ」
リヴィアが言った。
「何だ」
「今、あなたは何かを知っている顔をしました」
「してない」
「しました」
「船酔いだ」
「便利に使いすぎです」
彼女の声は静かだった。
責めてはいない。
だが、逃がす気もない。
「今は聞きません」
「助かる」
「ですが、記録します」
「助からない」
テオが油紙を畳んだ。
「リヴィア殿。北東島領行きの船を洗おう。今出る船だけじゃない。昨日、一昨日、その前も」
「はい」
ダリオが短く命じた。
「港を完全に閉じろ。サレーネの名で全船止める」
「共和国の港湾評議会が文句を言います」
記録係が言った。
ダリオは即答した。
「言わせろ。死んだ名が港で息をしている。評議会より先に息を止める」
リヴィアが父を見た。
ほんの一瞬だけ、娘の顔になった。
すぐに船団の顔に戻る。
「父上」
「行け、リヴィア。お前の船で拾った火種だ。お前が港へ広げる前に止めろ」
「はい」
リヴィアは俺を見る。
「ロド・カナリ」
「何だ」
「あなたも来てください」
「またか」
「必要です」
「俺はもう、歩けないどころか立ってもいない」
「運びます」
「この国では、証人は運ぶものなのか」
「あなたに限っては」
ひどい。
だが、今度は文句を言う気力があまりなかった。
北東島領。
島の女。
王家筋。
レイラ。
俺は革袋を握った。
からん、と空の硝子管が鳴る。
戻ってくる。
六番。
戻らなければならない。
でも、その前に。
誰かを、失う前に追わなければならない。
旅は、また曲がった。
海から港へ。
港から島へ。
そして、たぶん、俺の過去へ。
──第二十七部 了




