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第二十七部 死んだ名が、港で息をする話 ③ 半地下の記録庫


 古い記録庫は、本部の奥、半地下にあった。

 石壁。

 低い天井。

 塩を避けるためか、床には乾いた砂が薄く撒かれている。

 棚には、航海記録、死亡記録、積荷台帳、修繕記録が並んでいた。

 湿気を吸わないよう、紙束は油布と木箱で守られている。

 だが、その中で一つだけ、箱が開いていた。

 三年前、ラグナ沖。

 リヴィアがすぐに見つけた。

「ここです」

 箱の中には、紙束がいくつも残っている。

 だが、一束だけ抜けていた。

 きれいに。

 まるで最初からなかったように。

「三年前の第三夜番記録」

 リヴィアの声が低くなる。

「エリオが消えた夜の、詳細な見張り記録です」

「死亡記録は残っていた」

 テオが言った。

「だが、夜番の細かい記録は抜かれた」

「誰が最後に見たかが書いてあるやつか」

 俺が言うと、リヴィアは頷いた。

「はい。誰がどこに立っていたか。どの時刻に帆を替えたか。灯を誰が振ったか。全部です」

「ガスパルは、それを持って逃げた」

「その可能性が高いです」

 テオが棚の奥を見た。

「ただ、逃げたにしてはきれいすぎるね」

「何が」

「急いで抜いたなら、周りの紙がずれる。油布が乱れる。箱の角に指跡が残る。でも、これは」

 テオは箱の中を指した。

「慣れた手だ。どの束を抜くか、最初から知っていた」

 リヴィアの顔が硬くなる。

「ガスパルは、この記録庫を管理したことがあります」

「なら、道を知っている」

「はい」

 俺は寝台ではなく、記録庫の椅子に座らされていた。

 座らされた、という表現が正しい。

 マリノが「立つと邪魔です」と言ったからだ。

 事実なので腹が立つ。

 俺は棚を見た。

 紙。

 箱。

 砂。

 足跡。

 足跡。

「リヴィア」

「何です」

「ここ、砂を撒いてるんだよな」

「はい。湿気取りと、滑り止めです」

「なら、足跡が残る」

 全員が床を見た。

 砂の上には、いくつかの足跡がある。

 記録係。

 リヴィア。

 テオ。

 マリノ。

 俺を運んだ水夫。

 そして、もう一つ。

 棚の前から、壁際へ向かう足跡。

 だが、その足跡は途中で消えている。

「消えてるな」

 俺は言った。

 リヴィアが壁際へ近づく。

 石壁。

 古い棚。

 何もないように見える。

 だが、壁の下の砂が少しだけ盛り上がっていた。

 テオがしゃがむ。

「隠し戸だね」

「本部に?」

 リヴィアの声が変わった。

「父上も知らないはずです」

「古い建物なんだろ」

 俺は言った。

「港の建物には、逃げ道がある。火事、海賊、戦争。そういう時の道だ」

「詳しいですね」

「詳しくはない。リュー……」

 止めた。

 リヴィアがこちらを見る。

 テオも見る。

 マリノは少しだけ眉を上げる。

 俺は咳払いした。

「サンドルなら、そう言う」

「言い直しましたね」

 リヴィアが言った。

「今は記録するな」

「あとでします」

「本当にするな」

 テオが壁を叩いた。

 低い音。

 空洞だ。

 リヴィアが腰の短剣で壁の継ぎ目を探る。

 石の一つが、わずかに動いた。

 押す。

 壁が開いた。

 冷たい空気が流れた。

 狭い通路。

 下へ続く石段。

 潮の匂いが強い。

「本部の下に、こんな道が」

 リヴィアの声が低い。

 怒りではなく、傷ついた声だった。

 自分の船の中に内通者がいた。

 自分の本部の下に知らない道があった。

 海の姫にとって、それは痛いのだろう。

 俺は口を開きかけた。

 痛いなら言え。

 そう言いそうになった。

 だが、やめた。

 前に言った。

 今は、彼女が言う番ではない。

 彼女は進む番だ。

「下ります」

 リヴィアが言った。

「駄目です」

 マリノが即答した。

「なぜ」

「あなたの手首は処置済みですが、狭い通路で戦闘になる可能性があります。ロド殿は論外。テオ殿は商人。私も医者です」

「では誰が」

 その時、背後から声がした。

「俺が行く」

 ダリオだった。

 いつの間にか記録庫の入口に立っている。

 船団長の足音は、意外なほど静かだった。

「父上」

「本部の下の道なら、俺の責任だ」

「ですが」

「お前はここで紙を見る。紙を捨てて剣を取るな」

 リヴィアは黙った。

 その言葉は、彼女に効いたようだった。

 ダリオは俺を見た。

「怪我人」

「ロド・カナリだ」

「その椅子で考えろ」

「命令が雑だな」

「考えるには十分だ」

「何を」

「ガスパルが、なぜ隠し道を使ったか」

 俺は通路を見た。

 暗い。

 潮の匂い。

 地下。

 港へ続くか、海へ続くか。

 ガスパルは記録を抜き、隠し道で逃げた。

 でも、ただ逃げるなら、なぜ記録庫から直接港門へ行かない。

 なぜ本部の下の道を使う。

 人に見られたくなかったから。

 いや、それだけではない。

「テオ」

「何だい」

「本部から港へ出る裏道は、昔の密輸路にも使えるか」

「使えるだろうね」

「ガスパルは紙を持って逃げた。でも、紙だけなら身につけて歩ける。隠し道を使ったのは、別の荷も動かしたからじゃないか」

 リヴィアの目が変わる。

「別の荷」

「三年前の記録を抜いた。けど、港で息をする死んだ名があるなら、紙だけじゃない。札か、印か、古い灯具か。エリオをエリオとして動かすための何か」

 テオが低く言った。

「名に体を与える道具」

「そう」

 俺は革袋を押さえた。

 青銅の札。

 死者名簿。

 名前には、紙以外の体がいる。

 それを俺たちは見てきた。

「記録庫には、死んだ水夫の個人札みたいなものはあるのか」

 リヴィアの顔がはっきり変わった。

「あります」

「どこに」

「隣の保管棚です。死亡扱いになった水夫の認識札、古い勤務印、家族へ返す前の控えを一時保管する場所が」

 リヴィアは走った。

 俺は立とうとした。

 マリノに肩を押さえられた。

「あなたは考える係です」

「便利に固定するな」

 リヴィアが隣の棚を開ける音がした。

 沈黙。

 嫌な沈黙。

 すぐ戻ってきた彼女の手には、小さな空の布袋があった。

「エリオの認識札がありません」

 テオが目を閉じた。

「死んだ名に、体がついた」

 その言葉が、記録庫に落ちた。

 港で息をする死んだ名。

 死者名簿。

 青銅の札。

 エリオの認識札。

 全部が、同じ形をしている。

 名前を、人に戻す道具。

 あるいは、人から名前を奪う道具。

 ダリオが低く言った。

「リヴィア、港を閉じるだけでは足りない。北東島領行きの船を止めろ」

「北東島領?」

 俺は反応した。

 胸の奥が冷えた。

 なぜだ。

 まだ何も知らないはずなのに。

 リューリックが遠くでこちらを見ているような気がした。

 ダリオは続けた。

「ガスパルは、三年前の記録とエリオの札を持った。死んだ水夫の名で乗れる船を探すなら、サレーネの定期便ではない。古い漁船か、島間連絡船だ」

「北東島領へ向かう便は?」

 リヴィアが記録係へ叫ぶ。

 若い記録係が震えながら答えた。

「今朝、白鳥礁の潮待ち後に一艘。小型連絡船ルメリアが出ます。積荷は乾燥魚、布、紙箱。乗員名簿には」

 彼は紙をめくった。

 顔が青くなる。

「エリオ・バルトの名があります」

 記録庫の空気が止まった。

 死んだ名が、港で息をしている。

 本当に。

 リヴィアが外套を掴んだ。

「止めます」

 ダリオが頷く。

「行け」

「父上は」

「地下道を押さえる。ガスパルがまだ港内にいるなら、ここから戻る」

「ロド・カナリ」

 リヴィアが俺を見た。

「何だ」

「来てください」

「俺が?」

「あなたは今、余計なことを言いました。そして当たりました」

「褒め方が怖い」

「必要です」

 マリノがため息をついた。

「運びます」

「慣れてきたな、マリノ」

「慣れたくはありませんでした」

「俺もだ」

 テオは紙束を抱えた。

「僕も行く。乗員名簿と照合する」

 ダリオが短く言った。

「行け。だが、港で剣を抜くな。ここは船団の港だ」

 リヴィアが答える。

「抜きません。止めます」

 それは、白鳥礁の時と同じ声だった。

 沈めない。

 殺さない。

 名も証人も落とさない。

 止めて、取り戻す。

 俺は水夫に支えられながら、記録庫を出た。

 いや、運ばれながら。

 だが、今度は不思議とあまり恥ずかしくなかった。

 急がなければならない。

 死んだ名が、船に乗ろうとしている。



 ──第二十七部 了


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