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第二十六部 朝潮と、間違えた灯の返事の話 Another Side:リューリック

 剣を抜いた時、倉の中の空気は変わった。


 音は小さい。


 刃が鞘を離れる、ごく短い音。


 だが、それだけで十分だった。


 灰橋倉へ戻ってきた四人の男たちは、足を止めた。


 止めた時点で、半分終わっている。


 剣は、抜いてから考えるものではない。


 抜く前に、どこで止めるか決めておくものだ。


 リューリックは、一歩踏み込んだ。


 一人目は斧。


 重い。


 速さより力で押す型。


 倉の中では振りにくい。


 だから、振らせる前に入る。


 手首。


 肘。


 肩。


 斧が床へ落ちた。


 リューリックは剣の峰で男の首筋を打った。


 倒れる。


 二人目は短槍。


 倉の中で槍を持つ者は、自信があるか、距離を知らないかのどちらかだ。


 この男は後者だった。


 槍先が木箱に触れる。


 ほんのわずかに軌道が遅れる。


 リューリックは、その遅れに入った。


 槍の柄を踏み、刃を滑らせ、男の指を打つ。


 槍が落ちる。


 鳩尾に柄頭。


 沈む。


 三人目は弩。


 すでに矢を番えている。


 リューリックは、倒れた木箱の蓋を蹴り上げた。


 矢は蓋を貫いた。


 木片が散る。


 その影で距離を詰める。


 剣は、まだ人を斬っていない。


 斬らずに済むなら、それでいい。


 顎。


 膝。


 手首。


 弩が床へ滑った。


 四人目が、遅れて動いた。


 動きが違う。


 短剣を二本。


 足音が軽い。


 見張りでも倉番でもない。


 こちらが本命だ。


 リューリックは剣を少しだけ下げた。


 相手の目が動く。


 喉ではなく、手元を見る目。


 訓練を受けている。


 男は、左の短剣を投げた。


 リューリックは避けた。


 避けた先に、右の短剣が来る。


 悪くない。


 だが、殿下ほど読みにくくはない。


 殿下は、予想外のところで転ぶ。


 予想外のところで誰かを庇う。


 予想外のところで痛いと言う。


 あれは厄介だ。


 この男は、きれいに殺しに来る。


 だから、処理しやすい。


 リューリックは剣を返し、右の短剣を弾いた。


 刃が触れる。


 小さな火花。


 男が踏み込む。


 近い。


 近すぎる。


 リューリックは剣を引かず、逆に柄で相手の胸を押した。


 男の呼吸が止まる。


 その一瞬で、膝を払う。


 倒れる。


 床へ落ちる前に、首の後ろへ軽く打つ。


 意識が落ちた。


 四人。


 終わった。


 息は乱れていない。


 ただ、左腕に一筋だけ血が流れていた。


 二本短剣の男が投げた刃が、袖を裂いていたらしい。


 浅い。


 問題ない。


 そう判断してから、リューリックは少しだけ眉を寄せた。


 殿下なら、ここで痛いと言う。


 ニーナ殿なら、言わせる。


 エルゼなら、記録する。


 リューリックは、自分の左腕を見た。


「痛みはあります」


 誰もいない倉で、そう言った。


 言ってから、少しだけ困った。


 何をしているのだろうか。


 だが、言葉にすると、傷の位置が明確になる。


 悪くない。


 殿下の周囲の方々は、時々、妙に正しい。


 リューリックは布で腕を巻き、帳簿を油紙へ包み直した。


 灰橋倉の帳簿。


 青い細線の紙片。


 レヴォナ軽銀。


 穴のずれた青銅の札。


 そして、王家筋、未確定の注記。


 これだけでも十分だった。


 だが、まだ足りない。


 倉という場所は、表の荷より裏の隙間を見るべきだ。


 リューリックは机の脚を見た。


 一つだけ、床板との間に紙片が挟まっている。


 偶然ではない。


 急いで隠した紙だ。


 細い針で引き出す。


 紙片は半分焦げていた。


 誰かが燃やそうとして、燃やし切れなかったもの。


 そこには短い文字が残っていた。


 王家筋、未確定。


 女。


 北東島領。


 年、二十二前後。


 青線、接触済。


 リューリックの呼吸が止まった。


 女。


 北東島領。


 二十二前後。


 青線、接触済。


 偶然なら、どれだけよかったか。


 だが、偶然ではない。


 年が近すぎる。


 場所が近すぎる。


 言葉が近すぎる。


 レイラ・ヴァン・リュカリオン。


 殿下の妹君。


 リューリックは、紙片を握りつぶしかけた。


 すぐに止めた。


 紙は潰さない。


 怒りは、紙に向けるものではない。


 紙の向こうへ向けるものだ。


「紙の向こうの人」


 彼は低く呟いた。


 海でも、陸でも、その名が出ている。


 見る者。


 手を動かす者。


 名前を運ぶ者。


 そして、王家の血を探す者。


 リューリックは、倉の奥をさらに探った。


 木箱の下に、小さな帳面があった。


 こちらは会計帳ではない。


 人の移動記録。


 誰がどこへ送られたか。


 どの名を使い、どの札を添え、どの銀で払われたか。


 その末尾に、見慣れない符号があった。


 島。


 鳥。


 青。


 目。


 リューリックは、符号を記憶した。


 紙は持つ。


 だが、紙を失っても、頭に残す。


 それも、かつての仕事だった。


 外で、馬の音がした。


 さらに人数が来る。


 灰橋倉は、ただの倉ではなかった。


 これは中継点だ。


 そして、誰かがすでに異変を知った。


 リューリックは、倒した男の一人を見た。


 まだ意識がある。


 最初に「紙の向こうの人」と言った男だ。


「北東島領へは、誰が向かいました」


 男は笑った。


 口の端に血がある。


「遅い」


「何が」


「紙はもう、海に乗った」


 リューリックは、表情を変えなかった。


 だが、胸の奥が冷えた。


 海。


 殿下が乗ったかもしれない方角。


 シーロへ向かう船。


 テオ殿。


 黒帆。


 そして、レイラ様へ伸びる紙。


「どの海です」


 リューリックが訊いた。


 男は答えない。


 答えない代わりに、笑った。


 リューリックは、それ以上聞かなかった。


 聞く時間ではない。


 整理する時間だ。


 彼は男の手首を縛り、口に布を噛ませた。


 殺さない。


 今は殺すより、運ぶ方が価値がある。


 殿下なら、たぶんこう言う。


 生きている方が、あとで喋る。


 言い方はもっと雑だろうが、意味は同じだ。


 リューリックは帳簿と紙片を抱え、裏口へ向かった。


 外にはすでに三人。


 松明。


 短剣。


 ひとりは火壺を持っている。


 倉を焼くつもりだ。


 証拠を消すために。


 リューリックは剣を抜いたまま、前へ出た。


「火を置いてください」


「何だ、お前」


「家令でございます」


「またそれか」


「はい」


 リューリックは、静かに構えた。


「整理が終わっておりませんので、燃やされると困ります」


 火壺の男が投げようとした。


 リューリックは踏み込む。


 今度は間に合わない。


 火壺が倉の入口へ飛ぶ。


 油が散る。


 炎が上がる。


 帳簿が燃える。


 それだけは避ける。


 リューリックは、体を入れた。


 火壺を剣の腹で叩き落とす。


 火が床に散る。


 左腕に熱が走った。


 さっきの傷とは別の痛み。


 焼けた油が袖に飛んだ。


 痛い。


 今度は、はっきり痛い。


「痛みはあります」


 リューリックは言った。


 言いながら、火壺の男の鳩尾を打った。


 男が崩れる。


 残り二人が怯む。


 その怯みを逃さない。


 剣の峰。


 肘。


 膝。


 床。


 終わる。


 炎は小さい。


 まだ消せる。


 リューリックは近くの水桶を蹴った。


 水が広がる。


 火が小さくなる。


 煙が立つ。


 黒い松脂の匂いがした。


 靴底ではない。


 帆でもない。


 火壺の油に混ぜられている。


 黒い松脂。


 陸にも、海にも、同じ匂いがある。


 リューリックは煙の中で、静かに目を細めた。


「繋がりましたか」


 誰にともなく言った。


 返事はない。


 殿下はいない。


 返事をする方はいない。


 だが、今はそれでいい。


 リューリックは帳簿を抱え、灰橋倉を出た。


 東の空がわずかに明るくなっていた。


 夜が終わる。


 だが、明るくなれば安心というわけではない。


 明るくなれば、見えるものが増えるだけだ。


 彼は左腕を押さえた。


 痛みはある。


 だが、動ける。


 なら、進む。


 レヴォナへ。


 そして、おそらく海へ。


 殿下。


 あなたがいない道は、静かすぎます。


 ですが、その静けさの中で、聞こえました。


 紙が、あなたの妹君の方へ流れています。


 リューリックは、焦げかけた紙片をもう一度見た。


 北東島領。


 女。


 二十二前後。


 青線、接触済。


 彼は紙片を油紙に包み、胸の内側へしまった。


 そこは、心臓に近い。


 置き場所としては、危険すぎる。


 だが、今はそこが一番よかった。



──Another Side 了


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