第二十六部 朝潮と、間違えた灯の返事の話 ④ 木筒の文
黒帆は完全には捕まらなかった。
白鳥礁に船足を殺され、帆綱を切られたが、船尾の小舟を一艘だけ下ろした。
そこに三人が飛び乗る。
ひとりは灯の男。
紙を見ていた男だ。
「逃げます!」
見張りが叫んだ。
「追うな」
リヴィアが言った。
「ですが」
「浅瀬で小舟を追えば、こちらが腹を裂きます。港へ伝令。黒帆は白鳥礁に足止め。小舟三人、南東へ逃走」
「了解!」
テオが横で低く言った。
「見事な判断だね」
「褒めていますか」
「商人としては、かなり」
「半分くらい信用します」
「残り半分は?」
「後で請求書を見ます」
テオが楽しそうに笑った。
「リヴィア殿、君は商人にも向いている」
「私は船団です」
「それも商売だ」
「海は商売だけではありません」
「もちろん。だから高い」
「値段をつけないでください」
俺は二人を見た。
「お前ら、仲いいな」
テオとリヴィアが同時にこちらを見た。
「商談です」
「交渉です」
「息が合ってるぞ」
「合っていません」
「合っていないよ」
また同時だった。
今度は俺が笑った。
脇腹が痛んだ。
「痛い」
「笑うからです」
「笑うからだね」
二人同時に言うな。
俺は左の桶を思い出した。
今は遠い。
いろいろ危険だ。
その時、黒帆から逃げた小舟の一人が、こちらへ向かって何かを投げた。
届く距離ではない。
だが、海へ落ちたそれは沈まなかった。
小さな木筒。
浮いている。
水夫が鉤で引き寄せた。
「触るな」
リヴィアが言った。
「マリノ」
「はい」
マリノが布で木筒を受け取る。
細い筒だ。
封蝋はない。
代わりに、青い細線が巻いてある。
テオの顔が変わった。
「開けるかい」
「開けます」
リヴィアが答えた。
「ただし、甲板で。全員が見ている前で」
マリノが慎重に筒を開ける。
中には紙が一枚。
濡れないよう、薄い油紙に包まれていた。
リヴィアが広げる。
短い文。
海風が、その紙の端を揺らした。
テオが読んだ。
「死んだ名は、港で息をする」
リヴィアの目が冷えた。
紙の下に、もう一行。
今度は俺にも見えた。
ガスパル・ローニを、先に返せ。
船上が静かになった。
「ガスパル」
リヴィアが言った。
昨夜、名前が出た男。
エリオが消えた夜の生き残り。
リヴィアの父の古い部下。
シーロ本島のサレーネ船団本部にいるはずの男。
「先に返せ、とはどういう意味だ」
俺が訊くと、テオは紙を見たまま言った。
「相手は、こちらがガスパルを持っていると思っている。あるいは、持っていることにしたい」
「でも、ガスパルは本部にいるはずだろ」
リヴィアは答えなかった。
答えられない顔だった。
信じている紙が、また少し揺れた顔。
「リヴィア」
「船団本部へ急ぎます」
彼女の声は低かった。
「黒帆は」
「港へ知らせます。白鳥礁に足止めした以上、こちらの勝ちです。ですが」
「ガスパルが危ない」
「はい」
彼女は紙を握りしめかけた。
途中で止めた。
紙を傷めないように、指を緩める。
怒っていても、紙を壊さない。
それがリヴィアだった。
俺はそれを見て、少しだけ胸の奥が熱くなった。
五番。
女の人にいいところを見せようとしない。
違う。
今は見せられている。
厄介だ。
見せられている方が、たぶん危ない。




