第二十六部 朝潮と、間違えた灯の返事の話 ③ 白鳥礁
白鳥礁は、名前の通り白かった。
朝日に照らされた岩肌が、海面の下でぼんやり光っている。
水は青い。
ただし、深い青ではない。
明るすぎる青。
浅い水の青。
綺麗だ。
そして、怖い。
綺麗な場所ほど、失敗すると死ぬ。
最近、俺はそういうことを少し学んできた。
「帆、半分落として!」
リヴィアの声が甲板を走った。
「右舷の荷、締め直し! 船首、白い波の左へ! 合図灯、用意!」
水夫たちが動く。
縄が鳴る。
帆が少し緩む。
船の速さが落ちる。
黒帆も速度を変えた。
追ってくる。
こちらが浅瀬へ入ると見て、ついてくるつもりだ。
「黒帆、入り口を合わせています!」
見張りが叫んだ。
リヴィアの表情は変わらない。
「合わせさせなさい」
「リヴィア様」
「まだです」
彼女は短い灯を振らせた。
一度。
二度。
間を置いて、長く。
そして、最後の灯をわずかに早く。
エリオの癖。
昨夜、黒帆が反応した間違い。
黒帆の船首で灯が揺れた。
今度は早い。
昨夜より、反応が早い。
「向こう、合わせてきました!」
水夫が叫ぶ。
リヴィアの目が少しだけ鋭くなった。
「覚えましたね」
「今ので分かるのか」
「昨夜は迷いました。今は迷っていません。つまり、向こうの誰かが、こちらの間違いを正解として覚え直した」
「学習が早いな」
「だから危険です」
テオが低く言った。
「紙だけじゃない。相手は、こちらの反応を買っている」
「買うなよ」
「買う者がいるから売る者がいる」
嫌な言葉だった。
だが、そういうことなのだろう。
名前だけではない。
癖。
合図。
間違い。
記憶。
そして、反応。
それすら売り物になる。
黒帆は、こちらと同じ入り口へ入ってきた。
低い船体が波を切る。
黒い帆が朝日を吸う。
距離が縮む。
向こうの甲板に人影が見える。
弓を構えている者。
鉤縄を準備している者。
そして、灯を持っている者。
俺は目を細めた。
遠い。
だが、なぜか灯の男だけ、こちらを見ている気がした。
「リヴィア」
「何です」
「あの灯の男、見習いか」
「見習い?」
「手が落ち着いていない。灯を持つ手が、海じゃなくて紙を見てるみたいだ」
リヴィアが俺を見た。
テオも見る。
俺は少し困った。
「たぶんだ。リュー……サンドルならもっと分かる」
リヴィアの眉が少し動いた。
「言い直しましたね」
「今はそこを記録するな」
「後で記録します」
「するな」
リヴィアは黒帆へ視線を戻した。
「灯を持つ者が紙を見ている。つまり、エリオ本人ではない可能性が高い」
「なぜ」
「エリオなら、合図は紙を見ずに振れます。見習いでも、何度も間違えた合図なら、なおさら」
彼女の声が少しだけ低くなった。
「少なくとも、あれはエリオではありません」
その言葉には、安心ではなく怒りが混じっていた。
エリオではない。
なら、誰かがエリオの癖を写し、紙にして、別の男に持たせている。
それは生存より、ある意味ひどい。
「リヴィア様、黒帆、さらに寄せます!」
「右へ二枚!」
「右へ二枚!」
「いまです。間違えた水路へ入れなさい」
リヴィアが言った。
水夫が一瞬だけ息を呑む。
だが、すぐに動いた。
船が角度を変える。
白い岩礁の左へ入る。
普通なら避ける場所だ。
俺でも分かる。
水面が白く泡立っている。
浅い。
かなり浅い。
「おい」
俺は言った。
「そっちは浅くないか」
「浅いです」
「船は大丈夫なのか」
「この船なら」
「その言い方、怖いな」
「怖がってください。正しい反応です」
リヴィアは目を離さない。
「船底を軽く擦ります。ですが、沈みません」
「軽く?」
「祈ってください」
「海に?」
「船に」
俺は思わず船板を見た。
「頼むぞ」
船が、白い岩礁のそばを滑る。
ごり、と低い音がした。
俺の背中が冷えた。
船底が岩を撫でた音だ。
水夫たちは顔を変えない。
いや、少し変えている。
だが、誰も叫ばない。
この船は知っている。
どこまでなら削れて、どこからなら裂けるかを。
黒帆も追ってきた。
こちらと同じ角度で入る。
しかし、黒帆の船体は少し重い。
帆も少し高い。
そして、操船が半拍遅い。
それはほんのわずかな差だった。
だが、海ではわずかな差が腹を裂く。
黒帆の船腹から、嫌な音がした。
ごり、ではない。
がり、と深い音。
次に、黒い帆が大きく揺れた。
「当たった!」
見張りが叫ぶ。
黒帆の船首が岩礁に乗り上げかけていた。
完全には止まっていない。
だが、船足は死んだ。
向こうの甲板に混乱が広がる。
弓の狙いが乱れる。
鉤縄が海へ落ちる。
黒い帆の端が、岩礁から跳ねた波を受けて裂けた。
黒い布の内側から、松脂と煤の匂いが風に乗ってきた。
「松脂」
俺は言った。
テオも頷いた。
「やはり、同じ材料だ」
「同じ組織か」
「まだ分からない。ただ、同じ手配筋を使っている可能性は高い」
リヴィアは黒帆を見たまま、短く命じた。
「弓、帆綱を狙いなさい。人ではなく、船を止める」
「はい!」
「黒帆を沈めない。沈めれば、名も証人も海に落ちる」
リヴィアの声が強くなった。
「止めて、港で捕ります」
水夫たちが一斉に応じた。
矢が飛ぶ。
黒帆の帆綱が切れる。
黒い帆が片側へ落ちる。
黒帆の船は、白鳥礁の中で身動きが取れなくなった。
スカッとした。
とてもスカッとした。
だが、俺は声を出して笑えなかった。
笑うと脇腹が痛い。
「痛い」
結局、別の理由で言った。
「笑わなければいいのです」
リヴィアが言った。
「笑ってない」
「顔が少し笑っています」
「顔まで管理するな」
「危険ですから」
「俺の顔が?」
「あなたの顔は、だいたい何かを呼びます」
ひどい。
だが、船の上で一番説得力がある。




