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第二十六部 朝潮と、間違えた灯の返事の話 ② 朝潮


 夜明け前、俺は揺れで目を覚ました。


 船が少し違う揺れ方をしている。


 上下ではなく、横へ引かれる感じだ。


 寝台の端に置かれた左の桶が、こつ、と床板に当たった。


 俺は桶を見た。


 桶はそこにいた。


 頼れる。


 頼りたくはない。


「起きましたか」


 マリノの声がした。


 船医は、俺の寝台脇で薬箱を閉じていた。


「起きたというか、起こされた」


「海に?」


「たぶん」


「なら、早起きの相手としては上等です」


「海に礼を言う気にはならないな」


「言わなくて結構です。海は返事をしません」


 船医はそう言って、俺の額に手を当てた。


「熱は少し下がりました。肩はまだ駄目です。脇腹もまだ駄目です。膝も信用できません」


「俺の体で信用できるところはあるのか」


「口です」


「そこなのか」


「よく動きます」


 褒めていない。


 たぶん、絶対に褒めていない。


 扉が開いた。


 テオが入ってきた。


 いつもの薄い笑みはあるが、目の下に少し疲れがある。


 商人でも寝不足にはなるらしい。


「朝潮が来る」


「何だ、それは」


「シーロへ入るには、朝の潮に乗るのが早い。逆に、ここで失敗すると、黒帆にもう一度寄せられる」


「失敗しそうなのか」


「リヴィア殿は失敗しない顔をしている」


「なら大丈夫か」


「ただし、彼女が失敗しないために、周りが相当動く必要がある」


 テオは俺を見た。


 嫌な予感がした。


「何だ」


「君も動く」


「俺は動けない」


「だから、動かされる」


「悪化している」


「分類としては、甲板上の参考資料だね」


「参考資料を外に出すな」


 マリノが淡々と言った。


「短時間なら可能です。船室にいるより、外気で船酔いはましになる場合があります」


「場合があるだけだろ」


「あります」


「断言が弱い」


「医療は断言しすぎると危険です」


 正しい。


 だが、正しいからといって嬉しいわけではない。


 結局、俺は水夫二人に支えられ、甲板へ出された。


 支えられたというより、運ばれた。


 もう抗議する気力もない。


 甲板の朝風は冷たかった。


 潮の匂いが濃い。


 東の空が明るくなり、水平線のあたりが薄い金色にほどけている。


 その光の中で、黒帆が見えた。


 夜より、はっきり見える。


 低い船体。


 黒く固めた帆。


 船首に印はない。


 名前も見えない。


 名乗らない船。


 それが、こちらの斜め後方にいた。


「近いな」


 俺は言った。


「近いです」


 リヴィアの声がした。


 彼女は舵のそばに立っていた。


 外套は濃い緑。


 髪は朝風で少し乱れている。


 目は、完全に起きていた。


 船団の娘の目。


 海の姫の目。


 船と風と黒帆を同時に見ている目だった。


「昨夜の灯に反応しました。黒帆には、エリオの癖を知る者がいる。あるいは、その癖を教えられた者がいます」


「どちらが悪い」


「どちらも悪いです」


「だよな」


 リヴィアは遠くの海を指した。


「この先に、白鳥礁があります」


「白鳥?」


「白く見える岩礁です。シーロへ入る小型船の近道ですが、潮を読めない船は腹を擦ります」


「黒帆は通れるのか」


「普通なら通れません」


「普通なら、か」


「ええ」


 彼女は黒帆を見た。


「あの船は、古い船団合図を知っていました。なら、古い水路図を持っている可能性もあります」


 テオが横から言った。


「エリオ・バルトの記憶を使っているなら、白鳥礁の入り方も知っているかもしれない」


「見習いが知るものなのか」


 俺が訊くと、リヴィアは頷いた。


「帆綱係見習いでも、浅瀬の入り方は教えられます。帆を張る者が、岩に腹を裂かれる場所を知らなければ、船が死にます」


「船が死ぬ、か」


「海では、そう言います」


 リヴィアは短く答えた。


「だから、間違えます」


「またか」


「またです」


「わざと間違えるのが、海の戦術なのか」


「正しく間違えます」


「難しいことを言うな」


 テオが少し笑った。


「ロド、商売でも正しく損をする時がある」


「お前の話は信用しにくい」


「信用しなくていい。請求は残る」


「もっと信用しにくい」


 リヴィアは、俺たちを一瞥した。


「余裕がありますね」


「ない」


 俺とテオが同時に言った。


 リヴィアは少しだけ目を細めた。


「息は合っています」


「合ってない」


「合っていない」


 また同時だった。


 朝からひどい。


 俺は左の桶が恋しくなった。


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