第二十五部 死んだ水夫の合図と、灰橋倉の家令の話 Another Side:リューリック
灰橋倉は、地図の上では倉庫だった。
だが、倉庫というには、窓が少ない。
人の出入りも少ない。
荷の出入りは、さらに少ない。
にもかかわらず、周囲の道には荷車の跡がある。
つまり、荷は入っている。
出ていない。
あるいは、荷として入ったものが、別の形で出ている。
リューリックは、橋の上から倉を見下ろしていた。
古い石橋。
下を流れる細い川。
灰色の壁。
倉の扉には、錆びた鉄の輪。
表向きは使われていない。
だが、扉の下の土は新しい。
最近、開いている。
「殿下なら」
リューリックは、小さく呟いた。
そこまで言って、口を閉じた。
殿下なら、たぶん正面から行こうとする。
あるいは、荷運びに混じろうとする。
そして、なぜか中で騒ぎを起こす。
その騒ぎが、結果的に隠されたものを表に出す。
あの方は、そういう方だ。
だが、今ここに殿下はいない。
ならば、別の方法で行く。
静かに。
早く。
できれば、血を少なく。
リューリックは倉の裏手へ回った。
壁に手を当てる。
湿り気。
苔。
だが、一か所だけ、苔が剥がれている。
人の肩が当たる高さ。
隠し戸。
見つけるのは難しくない。
隠し戸を作る者は、扉を隠すことばかり考え、使う者の癖を隠し忘れる。
リューリックは細い針を取り出し、錠に触れた。
家令の家系の副業の本義。
鍵を開けることではない。
開けるべき鍵と、開けてはならない鍵を見分けること。
この鍵は、開けるべき鍵だった。
音は、ほとんどしなかった。
中は暗い。
干し草の匂い。
古い木箱。
油。
そして、紙。
人の匂いは二人。
奥に一人。
二階に一人。
どちらも起きている。
リューリックは足音を消した。
剣は抜かない。
まだ抜く必要はない。
奥の男が、気づいた。
「誰だ」
声は低い。
慣れている。
リューリックは答えなかった。
代わりに、木箱の影から半歩出た。
男が短剣を抜く。
速い。
ただの倉番ではない。
リューリックは鞘で短剣を受け、手首を返した。
骨を折るまではしない。
武器を落とさせる。
膝を払う。
男が倒れる。
二階の床が軋む。
もう一人が降りてくる。
弩。
リューリックは木箱を蹴った。
箱が倒れる。
矢が箱に刺さる。
次の矢を番える前に、階段を三段飛ばして上がった。
相手が驚く。
その驚きで十分だった。
肘。
肩。
顎。
男は声を出す前に沈んだ。
抜く必要は、まだなかった。
リューリックは二階の奥を見た。
机。
油灯。
帳簿。
青い細線の入った紙片。
そして、古い名簿。
名簿の表紙に、懐かしい形式の罫線があった。
旧リュカリオン北方補給帳。
その写しではない。
だが、真似ている。
いや、真似ではない。
知っている者が、別の目的で使っている。
リューリックの指が、一瞬だけ止まった。
怒りではない。
懐かしさでもない。
もっと嫌なものだ。
墓の石を、商売台にされたような感覚。
彼は帳簿を開いた。
名前。
死亡扱い。
移送済み。
通行札あり。
青銅札あり。
軽銀支払い済み。
欄が並んでいる。
そして、その中に、ひとつ。
リュカリオン語の古い略号で書かれた注記。
王家筋、未確定。
リューリックの息が、わずかに止まった。
王家筋。
未確定。
それは、殿下のことではない。
少なくとも、この帳簿の日付では違う。
だが、誰かを探している。
旧リュカリオンの血に近い誰か。
あるいは、そう名乗れる誰か。
名前売買は、ただの身分偽装ではない。
王家の残り香まで売ろうとしている。
リューリックは、帳簿を閉じた。
その時、背後で男が呻いた。
「それを持っていくな」
最初に倒した男だ。
意識が戻っている。
リューリックは振り返った。
「誰の帳簿です」
「紙の向こうの人のものだ」
リューリックの目が細くなった。
「紙の向こう」
「俺たちは写すだけだ。名を運ぶだけだ。見るのは、向こうだ」
「目、ですか」
男の顔が変わった。
言い過ぎたと気づいた顔だった。
リューリックは、静かに一歩近づいた。
「どこで、その言葉を覚えました」
「知らない」
「知らない者は、その顔をしません」
男は黙った。
リューリックは膝をつき、男の目を見る。
殺意は出さない。
ただ、逃げ道を消す。
「私は家令です」
リューリックは言った。
「整理するのが仕事です。人、荷、紙、嘘。すべて、置くべき場所へ戻します」
「家令が、こんなことをするか」
「かつては、別の仕事もしておりました」
男の顔が、また変わった。
怯えではない。
記憶。
やはり、この言い方を知っている。
「北の……」
男が漏らした。
リューリックは、続きを待った。
男は口を閉じた。
よい判断だった。
だが、遅い。
北の。
それだけで十分だった。
旧リュカリオン北方。
補給帳。
特殊な略号。
足音を消す者。
紙を奪う者。
闇社会が覚えているのは、家令ではない。
家令になる前の、別の仕事の方だ。
リューリックは立ち上がった。
帳簿を油紙に包む。
青い細線の紙片も取る。
机の下から、小さな袋が出てきた。
レヴォナ軽銀。
軽い。
嫌なほど軽い。
そして、木箱の奥から、青銅の札が一枚出てきた。
穴がずれている。
後から束ねるために開けた穴。
殿下の持つ札と同じ癖かもしれない。
リューリックはそれも包んだ。
外で、足音が増えた。
三人。
いや、四人。
倉へ戻ってきた。
リューリックは、ようやく剣へ手をかけた。
今度は、抜く必要があるかもしれない。
彼は、ふと殿下のことを思った。
あの方なら、ここで痛いと言う。
そして、なぜか誰かを逃がす。
自分は倒れる。
そういう方だ。
リューリックは違う。
倒れるわけにはいかない。
殿下がいない道で、自分まで倒れるわけにはいかない。
「さて」
彼は静かに言った。
「家令の仕事を、少し荒くいたしましょう」
扉が開いた。
男たちが入ってくる。
リューリックは、そこで初めて剣を抜いた。
音は、小さかった。
だが、倉の中の空気が変わった。
抜く必要がある剣は、抜いた時点で、もう半分終わっている。
リューリックは一歩踏み込んだ。
灰橋倉の夜が、静かに始まった。
──Another Side 了




