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第二十五部 死んだ水夫の合図と、灰橋倉の家令の話 ⑤ 霧中の合図

 その夜、黒帆は三度目の接近をした。


 今度は鉤縄ではない。


 灯りだった。


 遠くの黒帆の船首で、小さな灯が三度短く、ひとつ長く揺れた。


 リヴィアの顔が変わった。


「何だ」


 俺が訊くと、彼女は答えなかった。


 代わりに、テオがこちらを見る。


「合図かい」


「古い船団の合図です」


 リヴィアの声は低かった。


「サレーネ船団の?」


「ええ。今は使っていません。昔、霧の中で僚船を呼ぶ時の合図です」


「なぜ黒帆が」


「知られたくないから、今から調べます」


 リヴィアは甲板へ出ようとした。


 俺は思わず言った。


「待て」


 リヴィアが振り返る。


「何です」


「その合図、エリオが知っていた可能性は?」


 リヴィアは一瞬止まった。


「あります。見習いでも、古い合図を教えられることはあります」


「なら、黒帆はエリオの名だけじゃなく、エリオが知っていた船団の符牒まで使っている」


 テオが続けた。


「死んだ名だけでなく、死んだ者の記憶も使っている可能性がある」


 リヴィアの顔が、さらに冷えた。


 海風より冷たい顔だった。


「最低ですね」


「最低だな」


 俺は頷いた。


「どう返す」


 リヴィアは、少しだけ考えた。


 そして、静かに言った。


「間違えて返します」


「間違える?」


「古い合図には、霧中応答の決まりがあります。ですが、エリオは見習いの頃、いつもひとつ順番を間違えていました」


「癖か」


「ええ。何度教えても、最後の長い灯を少し早く振る」


「それで?」


「黒帆が本当にエリオ本人、またはエリオを知る者なら、反応します。紙で合図だけ知った者なら、正規の返しを期待する」


 テオが感心したように言った。


「船団の記録だけでは分からない、生きていた癖か」


「記録してあります」


 リヴィアは言った。


「私の頭に」


「いい記録だ」


 俺が言うと、リヴィアは少しだけこちらを見た。


「借りますか」


「これは借りると沈みそうだ」


「正解です」


 彼女は甲板へ出た。


 俺は寝台から動けない。


 だが、扉の隙間から、甲板の灯が少し見えた。


 リヴィアが灯を振る。


 二度短く。


 少し間を置いて、一度長く。


 そして、本来よりわずかに早く、最後の灯。


 海の向こうで、黒帆の灯が止まった。


 返事がない。


 一呼吸。


 二呼吸。


 そして、黒帆の灯が揺れた。


 正規の返しではない。


 混乱している。


 テオが低く言った。


「効いたね」


「どっちに」


「少なくとも、向こうはただ紙を読んでいるだけじゃない。反応できる誰かがいる」


 俺は革袋を握った。


 空の硝子管が鳴る。


 からん。


 黒帆は、ただの手ではない。


 手の中に、誰かの記憶が混ざっている。


 死んだはずの水夫。


 消えた夜番。


 古い合図。


 名前は、紙だけでは運ばれていない。


 癖まで、符牒まで、誰かが運んでいる。


 リヴィアが戻ってきた。


 顔は静かだった。


「ロド・カナリ」


「何だ」


「あなたは、寝台の上にいる方がよく見えるのですか」


「嫌な褒め方だな」


「褒めています」


「なら、もう少し優しく言え」


「寝ていてください。役に立ちます」


「優しくなかった」


 テオが笑った。


 マリノも少しだけ口元を動かした。


 リヴィアも、一瞬だけ笑った。


 だが、その笑みはすぐ消えた。


「黒帆に、エリオを知る者がいるかもしれません」


「エリオ本人かもしれない」


 俺が言うと、リヴィアは黙った。


 言うべきではなかったかもしれない。


 だが、言わない方が残酷な気がした。


「生きていたなら」


 リヴィアは言った。


「私は聞きます。なぜ戻らなかったのか」


「死んでいたなら」


「名を取り返します」


「どちらも嫌だな」


「はい」


 リヴィアは、今度は迷わず頷いた。


「どちらも嫌です」


 強い女は、嫌なことを嫌だと言える時に、さらに強く見える。


 俺はそう思った。


 口には出さなかった。


 五番のためだ。


 たぶん。


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