第二十五部 死んだ水夫の合図と、灰橋倉の家令の話 ③ 移送済み
船団記録箱は、思ったより小さかった。
鉄の箱ではない。
厚い木箱だ。
外側に油が塗られ、角に真鍮が打たれている。
潮に強くするためだろう。
蓋の内側には、古い傷がいくつもあった。
火の焦げ跡。
刃物の跡。
何かを強くぶつけた跡。
箱そのものが、船団の歴史を少し背負っている。
リヴィアは鍵を差し込み、蓋を開けた。
中には、布で巻かれた記録束がいくつも入っている。
航海ごと。
船ごと。
死亡者、行方不明者、下船者、負傷者。
紙に塩の匂いが染みていた。
エルゼの記録とは違う。
帝国病院の紙は、整っていて、乾いていて、余白が静かだった。
サレーネ船団の記録は、少し荒い。
字も揃っていない。
ところどころ濡れて波打っている。
だが、不思議と雑ではない。
これは、揺れる船の上で必死に残した記録だ。
綺麗に書くことより、消さないことを選んだ紙だ。
「エリオ・バルト」
リヴィアは迷わず一束を取り出した。
三年前の記録。
ラグナ沖。
北の季節風。
俺は寝台から半分だけ身を起こそうとした。
マリノが額を押した。
戻された。
「せめて見せろ」
「起きずに見てください」
「首だけ伸ばせと?」
「目だけでお願いします」
「目は伸びない」
「では、テオ殿が読み上げます」
テオは記録束を受け取り、慎重に開いた。
彼の指は、やはり紙を傷つけない。
「エリオ・バルト。十七歳。帆綱係見習い。ラグナ沖、北風強し。第三夜番中に甲板より消失。遺体未発見。船団規定により死亡扱い」
テオはそこで止まった。
「妙だね」
「何が」
リヴィアが訊いた。
「死亡扱いの記録なのに、証言者の欄が薄い」
「薄い?」
「名前はある。だが、いつもの船団記録なら、誰が最後に見たか、どの持ち場だったか、何をしていたか、もう少し具体的に書くはずだ」
リヴィアの表情が硬くなった。
「その年は嵐が多くて、記録が乱れていました」
「もちろん、それもある」
テオは紙を傾けた。
「けれど、乱れているなら全部が乱れる。この欄だけ、きれいに足りない」
「きれいに足りない」
俺は繰り返した。
嫌な言葉だ。
雑な欠落ではない。
誰かが、足りないように整えた欠落。
イザベルなら、どう見るだろう。
エルゼなら、余白を見る。
そう思った。
「リヴィア」
「何ですか」
「この欄、誰が書いた」
リヴィアは記録を覗き込んだ。
「当時の航海書記です。名は、カロ・ディーノ」
「今も船団に?」
「いません。二年前に退職しました。シーロ本島で港湾倉庫の仕事をしているはずです」
テオが短く息を吐いた。
「シーロに着いたら、その人に会う必要があるね」
「会います」
リヴィアの声は固かった。
「ただし、その前にこの船の内通者です」
内通者は小部屋に縛られている。
舌の下から青い細線の紙片が出た男。
黒帆を「手」と言い、「目ではない」と言った男。
名を売る者に、名のない者を語る資格はない。
リヴィアがそう言った相手だ。
「エリオの名前をどうして知っていたのか」
リヴィアは言った。
「船団内部の記録に触れたのか、それとも外で買ったのか。どちらにしても、聞かなければなりません」
「聞いて答えるか」
俺が言うと、リヴィアは俺を見た。
「答えさせます」
静かだった。
たいへん静かだった。
俺は少しだけ身を縮めた。
「ロド・カナリ」
「何だ」
「今、怯えましたか」
「少し」
「なぜ」
「俺もよく余計なことを言うから」
「自覚があるなら結構です」
テオが笑いかけ、すぐに紙へ視線を落とした。
「もうひとつ。船倉の名前写しにあるエリオ・バルトの欄には、死亡扱いではなく、移送済み、とある」
「移送?」
リヴィアの声が変わった。
「どこへ」
「そこが削られている」
「削られている?」
「上から薬草粉を擦り込まれている。水で少し戻せるかもしれないが、今やると紙が傷む」
マリノが覗き込む。
「薬草粉なら、湿らせ方を誤ると紙ごと崩れます」
「できるかい」
「慎重にやれば」
「では、慎重に」
リヴィアが言った。
「誤らないでください」
マリノは真顔で頷いた。
「船医としては、患者より紙の方が難しいのは不本意ですが、やります」
「俺より紙を大事にするのか」
「今だけです」
「今だけでも傷つく」
「心ですか」
「誇りだ」
「後で診ます」
「本当に診るつもりか」
「必要なら」
この船医、真面目におかしい。




