第二十五部 死んだ水夫の合図と、灰橋倉の家令の話 ② 記録箱
「サレーネ船団の、死んだはずの水夫の名だ」
テオがそう言った時、船室の空気が一段沈んだ。
リヴィアは、その名をもう一度見た。
エリオ・バルト。
俺には知らない名だ。
だが、リヴィアにとっては違う。
彼女の顔から、余計な表情が消えていく。
怒鳴らない。
問い詰めない。
泣かない。
ただ、確認する顔になった。
「記録箱を出します」
リヴィアは短く言った。
それだけで、テオもマリノも動いた。
俺は寝台の上で、革袋を引き寄せた。
「俺は?」
「動かないでください」
リヴィアが即答した。
「いまの俺の役目は」
「見ていることです」
「また動かない証人か」
「今回は、動かないまま考える証人です」
「昇格したのか、悪化したのか分からないな」
「必要です」
リヴィアは腰の鍵束に触れた。
その指だけが、ほんの少し強く握られていた。
だが、声は揺れていない。
「マリノ」
「はい」
「船団記録箱を。船長室の奥です」
「鍵は?」
「私が持っています」
マリノが頷き、船室を出る。
テオは、内通者の紙片と名前写しを油布の上に並べ直した。
「ロド」
「何だ」
「君の死者名簿も、あとで照合することになる」
俺は革袋を見た。
底に、ヴェロニカから受け取った死者名簿がある。
青銅の札もある。
ずっと持っている。
だが、触れるたびに重くなる。
「今じゃないな」
「今じゃない」
テオは言った。
「まずはサレーネ船団の記録だ。船の死者は、船の紙から見るべきだろう」
「商人にしてはまともな順番だ」
「商人だから順番にはうるさい」
「値段にもだろ」
「もちろん」
船が揺れた。
俺の胃も揺れた。
左の桶は少し遠い。
まずい。
「マリノ」
呼びかけたところで、マリノはもういなかった。
リヴィアがこちらを見た。
「桶ですか」
「まだ言ってない」
「顔が言いました」
「俺の顔は船でも忙しいな」
リヴィアは無言で桶を少し近づけた。
ありがたい。
屈辱的にありがたい。
その間にも、テオは紙を見ていた。
青い細線。
死んだはずの水夫の名。
内通者の舌の下にあった紙片。
薬草樽に隠された名前写し。
黒帆。
紙の向こうの人。
目ではない手。
海の上で見つかったものが、少しずつ同じ場所へ集まっていく。
嫌な集まり方だった。
やがて、マリノが記録箱を抱えて戻ってきた。




