表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

136/276

第二十四部 濡れた外套と、寝台の上の囮の話 Another Side:リヴィア

 死んだ者の名は、船に残る。


 陸では、墓石に刻むのだと聞いたことがある。


 海では、少し違う。


 船の名簿に残る。


 積み荷の欄に残る。


 最後に触った帆綱の記録に残る。


 誰がどの夜番に立ち、どの港で降り、どの嵐の日に甲板から消えたのか。


 海で死んだ者は、波に持っていかれる。


 だからこそ、紙に残す。


 残さなければ、本当に消える。


 リヴィア・サレーネは、そのことを幼い頃から教えられてきた。


 船団の娘として。


 海の姫などと呼ばれる前から。


「サレーネ船団の、死んだはずの水夫の名だ」


 テオの声は静かだった。


 静かすぎた。


 彼は商人だ。


 高いものを見た時ほど、声を低くする。


 リヴィアは、紙の上の名前を見た。


 エリオ・バルト。


 十七歳。


 サレーネ船団所属。


 帆綱係見習い。


 三年前、北の季節風に押された夜、ラグナ沖で行方不明。


 船団記録上は、死亡扱い。


 リヴィアは、その名を知っていた。


 顔も覚えている。


 よく笑う少年だった。


 縄を結ぶのが下手で、父に何度も怒鳴られていた。


 けれど、帆を見る目だけは良かった。


 風が変わる前に、いつも空を見上げる癖があった。


 最後の夜も、彼は帆を見ていた。


 そして、消えた。


 海に落ちたのだと、誰もが思った。


 死体は上がらなかった。


 だから紙に残した。


 サレーネ船団は、そうしてきた。


 波が奪った者の名を、せめて船の中に残すために。


 だが、その名がいま、別の紙にある。


 薬草樽の中から出た名前写しに。


 青い細線のついた紙に。


 死んだはずの水夫の名が、誰かの手で、もう一度海へ流されている。


「リヴィア殿」


 テオが言った。


「この名前に、心当たりがあるんだね」


「あります」


 声は、思ったより低かった。


「うちの船の子です」


「子」


「船団では、若い水夫をそう呼びます」


 ロド・カナリが、支えられたままこちらを見ていた。


 怪我人の顔色は悪い。


 船酔いのせいだけではない。


 彼は紙を見ている。


 名前を見ている。


 たぶん、あの革袋の底にある死者名簿を思い出している。


 リヴィアは、ふと理解した。


 この男は、名前の重さを知っている。


 便宜上だらけの男なのに。


 名前だけは、軽く見ていない。


「エリオは、死にました」


 リヴィアは言った。


「少なくとも、うちの船団の記録では、そうです」


「記録が間違っていた可能性は?」


 テオが訊いた。


「あります」


 認めるのは、痛かった。


 だが、認めなければ進めない。


「生きていた可能性も、死んだ名を誰かが使っている可能性も、どちらもあります」


「……どっちが嫌なんだ」


 ロド・カナリが言った。


 余計なことを言う男だ。


 だが、必要なことを言う男でもある。


 リヴィアは、少しだけ目を閉じた。


「どちらも嫌です」


 正直に言った。


「生きていて、名を売ったのなら、私はその理由を知らなければならない。死んでいて、名を使われたのなら、私はその名を取り返さなければならない」


 船が揺れた。


 遠くで黒帆が影のように揺れている。


 海は、何も答えない。


 いつもそうだ。


 海は奪う時も、返す時も、理由を言わない。


 だから、人間が記録する。


 だから、船団が覚える。


 だから、自分がここにいる。


「テオ殿」


「何だい」


「サレーネ船団の死亡記録をすべて出します。あなたの名前写しと照合してください」


「船団内部の記録だ。外の商人に見せていいのかい」


「見せます」


 リヴィアは即答した。


「うちの船で、うちの死者の名が売られているなら、もう内側だけの問題ではありません」


 テオは少しだけ目を細めた。


 商人の顔ではなく、紙を見る者の顔だった。


「分かった。慎重に扱う」


「慎重では足りません」


「では?」


「誤らないでください」


 テオは、一度だけ頷いた。


「承知した」


 リヴィアは、次にロドを見た。


「ロド・カナリ」


「何だ」


「あなたの死者名簿も、いずれ照合させてください」


 彼の顔が少し変わった。


 痛みに耐える顔ではない。


 名前に触れられた顔だった。


「いずれな」


「今ではありません」


「分かってるのか」


「少しは」


 リヴィアは言った。


「命を拾うのと、秘密を盗むのは違いますから」


 ロドは黙った。


 それから、小さく笑った。


「いい言葉だな」


「私の言葉です」


「借りてもいいか」


「記録して返すなら」


「厳しいな」


「海は甘くありません」


 そう言った時、外の黒帆が少しだけ角度を変えた。


 まだ追っている。


 名を返すつもりはないらしい。


 なら、こちらから取りに行くしかない。


 リヴィアは、紙の上の名をもう一度見た。


 エリオ・バルト。


 死んだはずの水夫。


 船団の子。


 奪われたかもしれない名。


 リヴィアは、その名を指で押さえた。


 紙が少しだけ沈む。


「待っていなさい」


 誰にも聞こえない声で、彼女は言った。


「海へ出た名前は、持ち主を選ばない。そう言いましたね」


 黒帆の方を見る。


「違います」


 海風が、濡れた髪を揺らした。


「名前は、持ち主を忘れません」


 サレーネ船団の娘は、そう言って、記録箱を取りに歩き出した。



──Another Side 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ