第二十四部 濡れた外套と、寝台の上の囮の話 ⑤ 死んだはずの名
夜。
黒帆は、まだ遠くにいた。
近づきすぎず、離れすぎず。
月の出る前の暗い海で、黒い帆は影のように浮かんでいる。
内通者は船倉近くの小部屋に縛られ、マリノが眠り薬の残りを調べていた。
テオは、男の紙片と名前写しを照合している。
リヴィアは甲板に立っていた。
俺は、歩けないはずだった。
なのに、なぜか甲板の端にいた。
正確には、マリノと水夫に両側を支えられ、短時間だけ外気に当てられていた。
船酔いには風が効く場合がある、らしい。
ありがたい。
だが、支えられている姿は情けない。
海風は冷たかった。
潮の匂いが強い。
空には、薄い星が出ている。
足元の板は、まだ信用できない。
俺は手すりを握った。
「落ちないでください」
リヴィアが言った。
「落ちたら拾ってくれるか」
「海では、拾えるとは限りません」
「怖い返事だ」
「本当の返事です」
彼女は隣に立った。
少し距離がある。
近すぎない。
だが、離れすぎてもいない。
その距離が、なんとなくリヴィアらしかった。
「今日は、迷惑をかけた」
俺は言った。
「迷惑の種類が多いですね」
「分類するな」
「拾得物、参考資料、動かない証人、動かない助言者、囮、桶係」
「最後がひどい」
「実績です」
「実績にするな」
リヴィアは小さく笑った。
さっきの照れは、もう消えている。
だが、完全に忘れた顔ではない。
彼女は、少しだけ視線を海へ逃がした。
「さっきのことは」
「さっき?」
「腰帯です」
「すまん」
「支えたことは分かっています」
「なら」
「それでも、記録します」
「なぜだ」
「忘れると、また同じことをします」
「俺が?」
「船が」
そう来たか。
俺は少し笑った。
笑うと痛い。
「痛い」
「どこが」
「脇腹。少し」
「戻りますか」
「もう少し」
「まだ、は危ない言葉です」
「言い換える。少しだけ、海を見たい」
リヴィアは、俺を見た。
そして、海を見た。
「なら、少しだけ」
黒帆は遠くにいる。
空は暗い。
船は揺れる。
リューリックは、どこか陸の道を歩いている。
ニーナは、リンデンの診療所で誰かの熱を見ている。
俺は、海の上で、海の姫と並んでいる。
どうしてこうなったのか、説明は難しい。
だが、たぶん旅というものは、そういう説明できない曲がり方をする。
「ロド・カナリ」
「何だ」
「あなたは、本当に便宜上が多い人ですね」
「だろうな」
「でも」
「でも?」
「痛いと言うところは、本当のようです」
俺は返事に困った。
褒められたのか、診断されたのか分からない。
「それも、借り物だ」
「誰から」
「いろんな女から」
言ってから、しまったと思った。
リヴィアがこちらを見る。
「五番」
「今のは違う」
「何がですか」
「いいところを見せようとしたわけじゃない」
「では?」
「本当のことを言っただけだ」
リヴィアは、少しだけ黙った。
そして言った。
「なら、記録しておきます」
「やっぱり記録するのか」
「はい」
「何と」
「ロド・カナリ。借り物で立っている。今は立てていないが」
「最後を足すな」
「事実です」
俺は海を見た。
笑うと痛いから、少しだけ息を吐いた。
その時、背後からテオの声がした。
「二人とも、良い雰囲気のところ悪いけど」
「良い雰囲気ではない」
俺とリヴィアは同時に言った。
テオは、満足そうに頷いた。
「息が合ってきたね」
「商人」
リヴィアの声が低い。
「はい」
「用件を」
「もちろん」
テオは紙を掲げた。
「内通者の紙片と、船倉の名前写し。ひとつだけ、同じ名前があった」
海風が止まったような気がした。
「誰の名だ」
俺が訊いた。
テオは、笑っていなかった。
「サレーネ船団の、死んだはずの水夫の名だ」
リヴィアの顔から、色が消えた。
黒帆が、遠くで影のように揺れている。
名前は、まだ海の上にある。
そして、どうやらその名前は、リヴィアの船にも食い込んでいた。
──第二十四部 了




