第二十四部 濡れた外套と、寝台の上の囮の話 ④ 桶の一撃
囮作戦は始まった。
俺は寝台で眠っているふりをする。
左の桶は、少し離された。
近くにあると、いざという時に音がするからだという。
桶にも戦術的位置があるらしい。
海は本当に難しい。
テオは隣室で、わざと少し大きめの声を出している。
「紙はロドの船室で一度まとめる。怪我人のそばなら、誰も疑わない」
うまい。
実にうまい。
嘘なのに、本当っぽい。
商人は怖い。
マリノも応じる。
「怪我人のそばは、医療道具で人が出入りします。逆に自然です」
船医も怖い。
俺は目を閉じる。
眠っているふり。
呼吸を浅くする。
だが、浅くしすぎると本当に苦しい。
脇腹が痛む。
船が揺れる。
寝台の下にリヴィアがいる。
意識しないようにするほど、意識する。
たいへん良くない。
五番。
五番。
五番。
頭の中で唱える。
女の人にいいところを見せようとしない。
いまは、寝ているふりをするだけだ。
いいところも悪いところもない。
いや、寝台の下の女に呼吸を聞かれている。
それは何か別の恥ずかしさがある。
やめろ。
考えるな。
船室の外で、足音がした。
一人。
軽い。
水夫の靴。
でも、少しだけ急いでいる。
扉の前で止まる。
間。
船が揺れる。
扉が、ゆっくり開いた。
俺は眠っているふりを続けた。
薄目も開けない。
気配だけで見る。
リューリックならもっと正確に見えるのだろう。
俺には無理だ。
でも、床板の軋みくらいは聞こえる。
男は入ってきた。
桶を持っている。
水夫の上着。
湿った袖。
たぶん、さっき物置にいた男だ。
俺は見ていない。
見ていないが、匂いがした。
薄い薬草の粉。
眠り薬の奥にある、喉に引っかかる甘さ。
マレーナなら気づくだろう。
ニーナなら、子どもに使う量ではないと言うだろう。
俺は、その全部をまた少しだけ借りた。
男は俺の寝台へ近づく。
俺の革袋のそば。
偽物の油布包み。
手が伸びる。
その瞬間、船が大きく揺れた。
本当に大きく揺れた。
男の体が寝台へ倒れかかる。
俺は反射で目を開けた。
男と目が合う。
しまった。
男も驚く。
桶が転がる。
水が床に広がる。
そして、寝台の下からリヴィアが飛び出した。
速い。
しかし、床は濡れていた。
さっきの桶の水だ。
リヴィアの足が滑る。
彼女は男の腕を取ったまま、こちらへ倒れ込む。
男も巻き込まれる。
俺の寝台に、三人分の重さがかかった。
「ぐっ」
脇腹が悲鳴を上げる。
「痛い!」
「すみません!」
リヴィアが叫ぶ。
叫びながら、男の手首をねじり上げる。
謝りながら制圧している。
器用すぎる。
男が短い刃を抜こうとした。
俺は寝台の上で、できることを探した。
手元にあったのは、左の桶ではない。
水が入っていた方の小桶だ。
俺はそれを掴んだ。
肩が痛む。
それでも、男の頭にかぶせた。
ごん、という音。
桶が男の顔を覆う。
男の動きが止まった。
リヴィアがその隙に腕を固める。
扉が開き、テオとマリノが飛び込んできた。
「何の音だい!」
「桶だ!」
俺は答えた。
「何で?」
「そこにあった!」
「実務的だね!」
リヴィアが男を床へ押さえつけた。
濡れた床。
転がる桶。
俺の脇腹。
リヴィアの乱れた髪。
テオの呆れた顔。
かなりひどい光景だった。
だが、内通者は捕まった。
たぶん。
「ロド・カナリ」
リヴィアが、息を整えながら言った。
「はい」
「あなた、囮としては騒がしいです」
「俺のせいか?」
「半分くらい」
「残り半分は」
「船です」
「なら、仕方ないな」
「仕方なくありません」
テオが男の口元を確認した。
「舌の下に紙を隠していないか見て」
マリノが男の顎を押さえる。
小さな紙片が出てきた。
湿っている。
青い細線。
リヴィアの目が冷えた。
「この船で、何をした」
男は桶を外され、荒く息をした。
若い水夫だった。
いや、水夫に見せかけた男かもしれない。
目が泳いでいる。
薬の匂いが袖からする。
「答えなさい」
リヴィアの声は静かだった。
「名前は、もう戻らない」
男は言った。
「海へ出た名前は、持ち主を選ばない」
テオの顔が変わった。
「誰の言葉だ」
男は笑った。
「紙の向こうの人だ」
「黒帆か」
「黒帆は手だ。目ではない」
目。
その言葉に、俺は反応した。
円の中の目。
だが、まだ断定できない。
海の男がたまたま言っただけかもしれない。
いや、たまたまではないかもしれない。
どちらにしても、背中が少し冷えた。
リヴィアが男の襟を掴んだ。
「うちの船を、何に使った」
「通り道だ」
「誰の」
「名のない者の」
「名前を売る者に、名のない者を語る資格はありません」
リヴィアの声が低くなった。
怒鳴らない。
だから怖い。
「テオ殿、記録を。マリノ、この男が薬を飲んでいないか確認。ロド・カナリ」
「何だ」
「痛む場所は」
「脇腹。肩。誇り」
「最後は後で」
「後で診るのか」
「場合によります」
テオが男の紙片を油布に置いた。
「青い細線。黒帆。紙の向こうの人。目」
「書くなよ、俺の誇りは」
「必要なら」
「必要ない」
船室に、少しだけ笑いが落ちた。
だが、すぐに波の音がそれをさらった。
黒帆はまだ後ろにいる。
内通者は捕まった。
だが、その口から出た言葉は、むしろ遠くを指していた。
紙の向こうの人。
黒帆は手。
目ではない。
海へ出た名前は、持ち主を選ばない。
俺は寝台の上で、革袋を引き寄せた。
空の硝子管が鳴る。
からん。
死者名簿が、底で重く沈んでいる。
名前は、軽くない。
軽くしてはいけない。
リヴィアは捕まえた男を見下ろしている。
テオは紙を見ている。
俺は、天井を見た。
船は揺れている。
世界も揺れている。
だが、揺れているからこそ、掴むものが必要なのだろう。
俺の場合、それは革袋だった。
リヴィアの場合、それは船だった。
テオの場合、それは紙だった。
そして、売られた名前には、まだ掴む手がない。
なら、誰かが掴まなければならない。
できれば、立てる誰かが。
俺は立てない。
だが、桶なら投げられる。
たいへん低い到達点だ。
でも、今日のところは、それで一人捕まえた。
そう思うことにした。




